[#表紙(表紙.jpg)] 小池真理子 ひるの幻 よるの夢 目 次  夢のかたみ  静かな妾宅  彼なりの美学  秋桜の家  ひるの幻 よるの夢  シャンプーボーイ [#改ページ]   昼のまぼろし、夜のゆめ、   よるひるの別目《けじめ》わかたず追いすがる     ポール・ヴェルレーヌ「Lettre」(堀口大學訳) [#改ページ]    夢のかたみ  スリッパの音が静かに響いたと思ったら、障子に人影が映し出された。暮れに張りかえたばかりの白い障子は、縁先にあふれる一月の淡い日差しを存分に吸い込んで、とりとめもなく眩しく見える。 「先生」と志摩子の澄んだ声がした。「おひるをお持ちしました」  春恵は布団の上に起き上がった。ありがとう、と言おうとしたのだが、咳こんでしまって声にならない。志摩子が部屋に入って来て、春恵の背中をさすり始めた。  年のせいか、あるいはもともと、喘息もちだったせいか、いったん風邪をひくと、なかなか抜けない。若いころは、どれほどひどい風邪でも三日も寝ていればけろりと治ったのに、今ではぐずぐず寝たり起きたりを繰り返し、はっと気がつくと十日も過ぎていたりする。ひどい場合は暦が次の月に変わってしまい、そんな時はさすがに、ただごとではないと案じて全身をくまなく調べてもらうのだが、若いころからの低血圧と胃弱を指摘されるだけで、どこといって悪いところは見つからない。  六十五という年齢を考えれば、それは幸せなことですよ、と誰もが言う。だが、風邪が長引くたびに、老いて急激に衰えていく自分の肉体を目の当たりにさせられるのは、やりきれなかった。  志摩子が持って来てくれた丸盆が、畳の上に置かれている。盆の中の小さな土鍋からは、かすかな湯気がたちのぼり、食欲を誘う温かな香りが漂ってくる。  背中をさすってもらったおかげで、咳が遠のいた。春恵は「もう大丈夫」と言いながら、志摩子を追い払うような手つきをした。  志摩子と一緒の部屋にいると、呼吸をするのにも気をつかう。妊娠中の志摩子に風邪のウイルスをうつしでもしたら大事だった。いくら医者から、ウイルス性の風邪ではありません、風邪が引き金になって喘息の軽い発作が続いているだけです、と言われても、万が一のことを考えると怖くて仕方がなくなる。  そんなに案じているくらいなら、志摩子を休ませればいいのだが、何度言っても志摩子のほうで受け入れようとしなかった。私のことでしたら大丈夫です、と志摩子はいつも、自信ありげに胸を張って言う。「もう安定期に入っているのですし、私は身体だけは丈夫ですから、ご心配なく」と。  実際のところ、志摩子は丈夫だった。そもそも春恵は、志摩子が具合の悪さを訴えるのを聞いたこともない。若いせいか、肉体の変化にも無頓着で、妊娠しているというのに平然と飛んだり跳ねたりする。宅配便の荷物が届いたと言うと、玄関先まで少女のように一足飛びに走って行く。脚立に乗って、高いところのものを手さぐりで取ろうとする。妊娠した経験のない春恵は、そのたびにひやひやさせられるのだが、「平気です」とにこやかに言われると、そんなものかな、と納得してしまう。  志摩子と出会ったのは三年前。季節の変わり目ごとに喘息の発作がひどくなり、いよいよ深刻に身体の不安を感じ始めた矢先のことだった。  誰かに身の回りの世話を頼みたいのだけど、適当な人がいなくて、と会う人ごとに愚痴をこぼしていたところ、ある時、古くからつきあいのある編集者が、若い娘を伴って春恵の家を訪れた。高校生のころから先生の大ファンなのだそうです、是非、先生のところで働きたい、と熱心に言うものですから……そう紹介された。それが志摩子だった。  私が必要としているのは、世話をしてくださる方であって、お弟子さんではないのですよ、と春恵が諭したのだが、志摩子はいっこうに聞き入れようとしなかった。弟子だなんてとんでもない、私は昔から先生のお書きになる随筆が大好きなんです、先生のおそばで先生のために働ければ、それだけで本望なのです……そんなふうに目を輝かせ、熱をこめて言われれば、さすがに悪い気はしない。  信頼できる編集者の紹介ということもあったが、それ以上に、ひとめでわかる温かそうな人柄が気にいった。春恵は早速、志摩子に来てもらうことに話を決めた。以来三年。志摩子は休まずに通い続け、今では春恵にとってなくてはならない人間になっている。  志摩子が春恵の枕を取り去り、マットレスと布団の間に器用に座椅子を押し込んでくれた。春恵が寝込むと、志摩子はいつも食事の時、そうしてくれる。腰が痛くならないようにと、背あて用に薄手のクッションをはさむことも忘れない。  志摩子が一を聞いて十を知るタイプの、頭のいい娘であることも春恵を感心させていた。さほどうるさく言ったつもりもないのに、春恵がこだわり続けてきた生活上の習慣を志摩子は即座に理解した。  料理の盛りつけ方、器の選び方も趣味がよくて申し分がなく、煎茶ひとつ入れる時でも若いに似合わず細心の神経をはらってくれる。春恵が脱いだ着物を見事な手さばきでたたむことができるし、トイレや洗面所の片隅など、目立たないところに目立たぬように質素な花を活ける気づかいも好もしい。出版社や仕事関係者からの電話にも、無駄のない応対ぶりをみせ、来客をもてなす心得も充分である。  志摩子の母親は、格式を重んじる大きな料亭に勤めていたことがあるという。おかげで古いことばかり教わってきたものだから、同い年の友達からは、あなた年齢を偽ってるんじゃないの、ってからかわれます……志摩子は時々、そう言って穏やかに笑う。  春恵は座椅子に寄りかかり、ひと息ついてから志摩子が作ってくれた雑炊を口に運んだ。ちょうどいい具合にだしの利いた卵雑炊だった。薄く切って載せられている浅葱《あさつき》の青みが瑞々《みずみず》しくて、食欲をそそる。  明るい藤色のマタニティウェアに身を包んだ志摩子が、傍で不安そうに春恵を見守っている。 「おいしいですよ」と春恵は言った。「とってもおいしいわ」  嬉しそうに目を細めた志摩子は、無意識なのか、大きくせり出した腹を静かに撫でさすり、「よかった」とつぶやいた。  予定日は三月十日ころだそうで、腹の赤ん坊も男の子だとわかっているらしい。出産後はしばらく通えなくなるが、一段落したら、実家の母親に赤ん坊を預けることができるので、また今まで通り、先生のお世話を続けさせてほしい……妊娠がわかった時、志摩子は春恵に強くそう求めてきた。 「あなたさえよければ」と答え、それほど熱心に通って来てくれる志摩子の心意気が嬉しかったものの、年老いた女の世話よりも赤ん坊の世話のほうが楽しいだろうに、と春恵は今も不思議に思う。それに、どうしてまた自分が書くような古くさい、着物の話や草花の話、陶芸の話など、退屈な歳時記めいた随筆の愛読者でいてくれるのか、春恵にはわからない。志摩子はたかだか、二十七になるかならないかの若さなのである。  春恵が雑炊を食べ終えたのを見届けると、志摩子は即座に座椅子を片づけようと、布団のへりに中腰になった。  春恵は志摩子を制した。「いいわ、このままで。まだ少し起きていて、本を読みたいの」 「咳が出ませんか。大丈夫ですか」 「大丈夫。自分を甘やかしてたらきりがないもの」  志摩子はうなずいて、畳の上に座り直した。部屋から出て行くものと思っていたのだが、膝の上に土鍋を載せた丸盆を置き、志摩子はいつまでもぐずぐずと動かない。春恵が老眼鏡をかけ、枕元に置いた読みさしの短歌の本を手にしても、何か物問いたげに畳のへりをなぞったりしている。  春恵が問うようにして見つめると、志摩子は「あのう」と言って、おずおずと可憐な視線を彼女に投げた。「前から言おう言おうと思ってて、ついうっかり、忘れていたことがあるんですが」 「お皿でも割ったの?」春恵は微笑《ほほえ》んだ。「他の人ならいざ知らず、あなたが食器を割ったとしたら珍しいことね。雪が降るかもしれないわよ」  違います、と志摩子は言い、おっとりと微笑み返した。「お玄関に飾ってある、あの白黒写真のことなんです」  心臓のあたりに軽い緊張が走った。動揺を隠すのに苦労した。春恵は深く息を吸い、微笑みを消さないよう注意しながら、問い返した。「あれがどうかした?」  志摩子は口紅の跡の見えない、つややかな唇を軽く舐《な》めた。「さっき、お玄関のお掃除をしていまして、ああ、そうだ、先生にこのことをお話するのを忘れてた、って、急に思い出しまして……。あの写真に写っている女の人のことなんです。先生、あの女の人、なんだか私に似ているとお思いになりませんか」  春恵が黙っていると、志摩子はひとしきり身体を揺すって笑った。「写真のモデルになるくらいですから、美しい方ですよね。私はあんなにきれいじゃないですし、こんなことを申し上げると笑われてしまうのはわかりきってるんですが……。でも、しばらく前からそう思うようになったんです。何だかどこか自分に似てるな、って。そんな目で見ると、本当に似てるような気持ちになってきて、先生のお宅に来て、あの写真を目にするたびに何か嬉しいような恥ずかしいような、不思議な気持ちになってしまいまして……」  春恵は老眼鏡をはずし、まじまじと志摩子を見つめた。  春恵が苛立《いらだ》っているものと勘違いした様子だった。ごめんなさい、と志摩子は言い、ぺこりとすまなそうに頭を下げた。「すごくつまらない話でした。くだらなくって馬鹿みたいですよね。ご本をお読みになろうとしてるところだったのに、お邪魔してしまってすみません」  いいえ、いいの、私だってそう思ってたのよ、あなたはあの写真の女の人にそっくりなの、気味が悪いほど似てるのよ……そう声をかけてやろうとして、春恵は喉まで出かかった言葉をのみこんだ。  それは言ってはいけない言葉だった。そんなことを言ったら、黙っていられなくなってしまう。あの写真にこめられた不思議な因縁を志摩子に教えたくなるに決まっている。  だが、それだけは避けたかった。教えたら最後、これまで密かに紡いできた胸おどる夢が遠のき、重たい現実が孤独感と共にのしかかってくる……そんな気がした。  春恵が応えずにいると、志摩子はそっと立ち上がり、「では失礼します」と言いながら縁側に出て行った。穏やかな午後だった。志摩子が開けた障子の幅だけ、庭先の光が四角く畳の上になだれこんできた。  障子が閉じられた。四角い光の洪水が消えた。志摩子のスリッパの音が遠のいて、やがて何も聞こえなくなった。  春恵の家の玄関には、額入りの一枚の写真が飾ってあった。横四十センチ、縦五十センチほどのモノクロ写真である。  髪の毛を長く伸ばした若い女と中年の男が写っている。男は女の後ろに立ち、正面を向きながら彼女を柔らかく抱きすくめるようなポーズをとっている。男の顎と女のこめかみとはぴったり触れ合わされている。  かなり風の強い日に撮影したものらしい。二人の髪の毛は同じ方向に波打ち、女の髪の毛が男の髪の毛と溶け合ってしまっているように見える。  背景は何か荒涼とした印象で、草木の生えていない砂地のような場所であるということしかわからない。空は曇っていて、今にも嵐がやってきそうだ。  だが、カメラに向けられた二人の笑顔は輝くばかりに屈託がない。束の間の情事の後なのか、それとも二人でドライブをし、思いたって降り立った場所でふざけ合っている、という設定なのか。いずれにしても、夫婦には見えない。年齢に開きがありすぎるところをみると、男のほうが既婚者であると考えたほうが納得できる。  既婚者の男と独身の女……何か秘密めいた、仄暗《ほのぐら》い予感を抱かせる写真であることは事実である。なのに、二人の笑顔はあくまでも無邪気である。不安や悲しみの影は一切ない。それどころか、今にも写真の中の二人が動きだし、幸福そうに笑いころげながら接吻を始めるに違いない、と思われるほどである。  撮影者は高橋恒夫という名の写真家だった。恒夫は春恵の恋人だった。  その昔、恋におちたころ、八つ年上の恒夫には妻がいた。悪いが、僕たちのことを妻には知られたくないんだ……そう言われたが、腹が立つどころか、春恵はその率直さ、正直さに好感をもった。  出会った時、春恵は二十八歳。画廊を幾つか経営していた父を病で失い、様々な煩雑な後処理をすませ、東京武蔵野に残された父の家で一人で暮らしていこうと決めた直後のことだった。食べていくために、父が親しかった人のつてを頼り、得意としていた随筆原稿を書き始めたのもそのころである。  恒夫は、ふらりと春恵の家を訪れて酒を飲んで行ったり、十日も二週間も音沙汰がなくなったりした。もうこの家から出たくない、俺はここで一生、きみと一緒にとじこもって暮らしたい、などと言ったかと思うと、電話一本で、一ケ月ばかり写真を撮りにインドに行って来るからね、とあっさり報告してくる。逢瀬《おうせ》は曖昧でとらえどころがなかったが、それでも春恵にとって恒夫はたちまち、人生の大きな支えと化していった。  恒夫がこの写真を撮影し、発表したのは一九六八年。サイケデリックな模様や色彩が一世を風靡し、けばけばしさや派手さばかりが強調されていた時代だったせいか、モノトーンのシンプルな構図と、モデルの男女の自然な表情が人を惹きつけたものらしい。写真は高級婦人服メーカーの宣伝ポスターとして起用され、人気を博した上に、テレビCMにも使われた。恒夫の写真が画面いっぱいに映し出されたと思ったら、その中から写真のモデルになった男女とよく似た男女が、音楽に乗って飛び出してくる、という趣向のテレビCMである。  当時としては珍しかった特殊撮影が行われたこともあり、恒夫の写真は雑誌や新聞、週刊誌で話題になった。恒夫はたった一枚のこの写真で、一挙に写真家として世間に名前を知られるようになった。  だが、恒夫にはもともと、俗人が持ちあわせているような野心は希薄だった。彼はまっすぐ生まじめに仕事にうちこむタイプだった。有名になってからも頑固に自分のスタイルを守りぬこうとし、そうこうするうちに時代が彼に求めてくるものとかけ離れていった。呆気ないほど早く、彼は世間から忘れ去られた。  時代遅れとも思われる地味な写真、収入につながらない写真を自己満足のようにして撮り続け、一方で食べていくために様々な写真関係の仕事をこなし、恒夫はいつも忙しそうだった。週に二、三度、春恵の家を訪れては、ああ、ここが俺のわが家だ、ここが俺の天国だとつぶやいて幸福そうに酒を飲む。泊まって行くことはなかったが、それでも午前二時ごろまでは共に過ごし、食事をし、一緒に風呂に入り、黙ってテレビを眺め、時にはうたた寝をし、ごくありふれた夫婦のような顔をして過ごした。  そうした密かな関係が、丸二十年の長きにわたって続けられた。それなりの倦怠期《けんたいき》もあった。些細《ささい》なことで喧嘩を繰り返したりもした。もしかすると自分たちは本当の夫婦以上に夫婦らしい関係なのではないか、と春恵が錯覚に陥るほどで、相手に妻がいる、という現実を忘れてしまうことすらあった。  一九七九年秋。最近、なんだか疲れてさ、ちょっと歩いただけで立っていられなくなるほどだるくなるんだよ、年かな、などと言い始めたかと思ったら、数日後、突然、恒夫が病院から電話をかけてきた。すぐ入院しなくちゃいけないんだってさ、やぶ医者め、馬鹿なことを言いやがる、仕事が山ほどたまってるのに……それが恒夫が春恵に残した最後の言葉となった。  死亡したのは入院からわずか二週間後。享年五十六。劇症肝炎だった。葬儀にも参列せず、墓参に行ったのも一度だけ。しかも、誰もが墓参になど行かないだろうと思われる真冬の凍りつくような寒い日を選び、そそくさと線香をあげて帰って来た。あの人は本当に死んだのだ、とわざわざ確認しに行ったようなもので、帰った後、長い間、春恵は墓に詣でたことを後悔した。以来、一度も恒夫の墓には行っていない。  まだ元気だったころ、恒夫は自分がもっとも愛していたこの写真を額に入れ、春恵の家の玄関の、靴箱の上に掛けてくれた。  純和風の古い家の玄関先に、恒夫の写真は似合わない。何の変哲もない靴箱の上には、気に入った青磁の一輪挿しなどを置いて季節の庭の花を愛《め》でたいところなのに、壁の写真と調和がとれないため、諦めざるを得なくなる。おまけに写真は歳月を経て黄ばみを増し、つやを失って、何やら古い週刊誌のグラビアのようになり、訪れてくる客の話題にものぼらなくなってしまった。  それでも春恵は、写真を玄関先からはずそうとしなかった。写真は恒夫が彼女に残してくれた唯一の形見だった。  世間並みに祝福される関係でないことは、昔からわかりきっていた。孤独感にうちひしがれたことも数えきれないほどある。だが、別れたい、別れよう、と思ったことは一度もなかった。恒夫は春恵が生涯かけて愛した、ただ一人の男だった。  写真の中の男のモデルが、若かったころの恒夫に似ている……そんな気がし始めたのは、恒夫の死後二、三年たってからのことである。そう思って見ていると、ますます恒夫その人のようにも感じられ、玄関に立つたびに、かつて自分たちが無邪気に笑い合っていたころのことが思い出されて、春恵は甘酸っぱい切なさに酔いしれた。  一年ほど前。その恒夫に、あろうことか志摩子が深く関わっているらしいことを春恵は知った。春浅い三月初旬のことであった。  午後遅くまで、急ぎの随筆原稿を書いていた春恵の書斎に、志摩子がお茶を運んで来た。  書斎の和室には、大きな丸窓がついている。障子が張ってある丸窓で、はめ殺しになっているのだが、西日のあたる時刻になると障子に庭木の影が映って美しい。志摩子はその丸窓のシルエットを見るともなく一瞥《いちべつ》すると、「実は」と妙に改まって切り出した。「先生にご報告することがあるんですけど」  春恵は文机の上で眼鏡をはずし、志摩子を見た。志摩子は笑みを浮かべたまま、目をそらし、一息に言った。「このたび、結婚することになりました」  おやまあ、と春恵は言い、万年筆のキャップを閉めた。通い始めて来たころは、垢抜けないところがあった志摩子だが、まもなく髪の毛を伸ばし始め、どことなく仕草にもほのかな色香が感じられるようになった。これはひょっとして、と思っていた矢先でもあった。「そうだったの。それはそれは。おめでとう」  言いながら、志摩子に辞められたら困るな、とちらりと思った。志摩子ほど気のきく代わりの人間は簡単には見つかるまい。だが、顔には出さず、春恵はにこやかに聞いた。「聞いてもいいかしら。お相手の方はどんな方?」 「二十九になる人で、新聞社の写真部に勤めています。まだ修業中で、下働きばかりさせられてるみたいですけど」志摩子は笑った。「東京生まれの東京育ちです。彼のお父さんも写真関係の仕事をしていたらしくて……彼は高校のころから写真を始めたんですが、それもお父さんの影響があるみたいですね。ちょっと愛想が足りないところもありますが、まじめそのものっていう感じの人です。知り合ってからまだ半年ですけど、でも、この人なら、って思って、プロポーズをお受けして……」  胸がざわざわし始めたことに春恵は気づいた。志摩子がたった今発した言葉の中には、目に見えない符合があるような気がした。それが何なのかわかるまで、少し時間を要した。 「彼のお父さんは彼が中学の時に亡くなってるんです」志摩子は続けた。「私と同じ。私の父も私が中学三年の時に亡くなってますから。変な共通点があって、そんなところからお互いに興味を持ち合ったのかもしれません」  恒夫に子供ができたのはいつだったろう、と春恵は慌ただしく考えた。もっともよく覚えているはずなのに、不思議なことに忘れかけているような気もする。  例の写真で恒夫が有名になる二年ほど前の出来事だった。彼は確か、四十三歳だった。妻とはほとんど没交渉だと言っていたのに、ある時、恒夫は神妙な顔をして妻の妊娠を春恵に告げた。  その場で何かをわめいたような記憶があるが、何をわめいたのか、春恵は一切、覚えていない。泣かなかった。涙は出てこなかった。ただ、狂ったようにわめいただけだった。  生まれてきた子供は男の子だった。子供の名前は聞かなかった。金輪際、聞く気はなかったし、恒夫も子供の話は一切、春恵にしようとしなかった。  だが春恵は、恒夫が死んだ時の息子の年齢だけはよく覚えている。十三歳。中学二年生だったはずだ。身体の具合を悪くして、だるいだるい、と連発していた時、恒夫は一度だけ、春恵相手に息子の話をした。 「来年は高校受験でね。まだしばらくはスネをかじられる。だるいからって、いつまでもきみのところでごろごろしてるわけにもいかないな。ただ、適当に大学に放り込んでやったら、お役御免にさせてもらうつもりだけどね。そうすればこっちのもんだから」  お役御免って? と、春恵は聞いた。恒夫は黙って春恵を見つめ、意味ありげに唇の端を曲げて笑うと、照れたようにそっぽを向いた。  その数日後、恒夫は入院し、帰らぬ人となった。したがって、記憶に間違いがなければ、恒夫の息子は二十九歳になっているはずだった。それに、父親の影響を受けて、写真の仕事を始めていたとしても不思議ではない。  ひとしきり、二人の出会いについて喋り続けた志摩子は、ふいに言葉をとぎらせ、不安げな面持ちで春恵を見た。「先生。どうかされましたか」  春恵は我に返って微笑んだ。表情とは裏腹に、動悸が烈しくなった。丸窓から差しこんでくる西日が、畳の上に弱々しい橙色の影を落としている。  春恵は笑顔を作り直した。「いい方みたいね。お父様を亡くされてるそうだけど、お母様はご健在なの?」 「彼がはたちになった年に亡くなってます」志摩子は一瞬、表情をくもらせた。「両親とも亡くして……天涯孤独になったわけですけど、ちっともそんなふうに見えなくて。そういう前向きなところが尊敬できます。何て言うか……ひたむきに生きてきた感じがして」 「あの」と春恵は口ごもった。喉が塞がる思いにかられた。お父様は何のご病気で亡くなったの……そう聞こうとして言葉に詰まった。劇症肝炎……志摩子がそう答えてきたら、自分はこの場で卒倒し、口から泡を吹くに違いない、と春恵は思った。 「式はあげないつもりでいます」志摩子は唇を真一文字に結んできっぱりと言った。「私たちにそんな蓄えはありませんし、形式的なことはやめよう、って意見が一致してるんです。だいたい、彼のほうには係累がいないわけだし、私にも母親しかいませんし。母に相談したら、式をあげるお金があったら、その分で旅行に行ったほうがどんなにいいか、って」 「お母様は正しいことをおっしゃるのね」春恵はかろうじて笑みを保ったまま言った。「私もあなたのお母様と同じ意見よ。私のことはいいから、ゆっくり二人でヨーロッパでも回ってくればいいわ。一ケ月くらいかけてゆっくり」 「一ケ月だなんて」志摩子は笑った。「そんな贅沢ができるほど、お金に余裕がありませんから」  そこまで言うと、志摩子はいきなり正座し直し、畳の上に両手をついて深々と頭を下げた。「お願いします、先生。結婚しても、私をここで働かせてください。お願いします」  もちろんですよ、と春恵は言った。素っ気ない、気のないような言い方だった。  春恵は頭の中で、別のことを考えていた。どうして志摩子の婚約者の苗字が聞けないのだろう。聞いてしまえばいい。この場で単刀直入に聞いてもおかしいことではない。聞かれた志摩子も喜んで答えてくれるはずである。  だが、聞くのは恐ろしかった。相手の苗字を聞いて、タカハシという答えが返ってきたら、と想像すると、春恵は怖くて怖くてたまらなくなった。偶然、雇い入れた手伝いの若い女性が、あろうことか高橋恒夫の息子と婚約したらしい……その恐るべき奇遇に、自分が冷静に接することができるとはどうしても思えなかった。  その日の夕方、暗くなってから電話が鳴った。志摩子が帰った直後のことで、受話器を取ったのは春恵だった。 「そちらに志摩子という者がおりましたら、電話口に呼んでいただきたいのですが」  男の声だった。いくらか堅苦しくはあるが、躾《しつ》けの行き届いた話し方に思えた。父親からも母親からも存分の愛情を受け、申し分のない教育を受けてきた青年を連想させる……そんな声だった。 「志摩子さんでしたらついさっき、帰りましたけれど」春恵はそう言い、覚悟を決めて軽く息を吸った。「失礼ですが、どちらさま?」  わずかの沈黙があった。春恵は一瞬、気が遠くなるのを覚えた。 「高橋と申します」 「あの……不躾けな質問でごめんなさい」春恵は言った。「志摩子さんとご結婚なさる方……ですね」  受話器の向こうで青年がふっと息を吐いた。恥じらいとも、照れとも受け取れる吐息だった。「そうです。志摩子の婚約者です」  その翌日から、どういうわけか春恵は、玄関の壁に掛かっている写真の中の女を見るたびに、志摩子に似ている、と思うようになった。かつての恒夫が志摩子を後ろから抱きすくめ、無邪気に笑い合っている。そうとしか思えなくなった。  今頃になって自分は夢を見ている、と春恵は思う。わくわくさせられる楽しい夢、華やいだ夢とは少し違い、むしろそれは、静かでひっそりとした、薄荷飴《はつかあめ》のようにかすかな刺激を伴う甘美な夢だ。  今、志摩子の腹の中にいる赤ん坊は、元をたどれば恒夫の赤ん坊、恒夫と血を分けた赤ん坊だということになる。そう気づいた時から、春恵は浮き立つような気分を味わい始め、その気分は今もなお、人知れず密かに続いているのだった。  庭を囲っている古いブロック塀の向こうに、郵便配達人のバイクの音がしている。  春恵は手にしていた短歌の本が、するりと膝に落ちたのを知った。活字を追っていたつもりなのに、何を読んでいたのやら。物思いにふけるあまり、ただぼんやりしていただけらしい。  志摩子が玄関まで走り出て行く気配があった。引き戸を開ける音。大きく聞こえてくるバイクの音。志摩子が、「ご苦労さま」と大声で言いながら、郵便物を受け取っている。  その声、その言い方がかつての自分と重なった。あのころ自分は、やっぱり同じこの家に住んでいた。高校生のころに母を交通事故で失い、父一人娘一人の暮らしが板についてきた矢先、その父も他界した。一時は孤独の蟻地獄にはまって、息も絶え絶えになってはいたが、恒夫と出会ってからの自分は孤独ではなくなった。婦人雑誌に随筆の連載をいくつかもち始め、仕事にも意欲をもやした。人生でもっとも輝かしい、笑顔の絶えない時期だった。  通って来る恒夫と過ごす時間が、春恵の至福のひとときだった。そのひとときを待ちながら、誰にも邪魔されず、ひっそりと生活をすることは春恵の望むところだった。  朝起きて、庭の草木に水をやり、その時感じた土の匂い、なめらかな花びらの手触りなどを思い出しては原稿用紙の枡目を埋める。紬《つむぎ》の着物を着ようと、箪笥の引き出しに手をかけ、中にひそませておいた匂い袋の香りが立ちのぼってくれば、ああ、これは随筆のテーマになるな、と思い至り、取るものもとりあえず書斎にひきこもる。  父の残した財産と、わずかながら入ってくる原稿料で、女がひとり、生きていくためには充分すぎる余裕があった。そんな毎日だったから、気持ちばかりが妙にはずみ、郵便が配達されると、やっぱり志摩子と同じように玄関に走り出て、「ありがとう、ご苦労さま」と朗らかに声をかけた。配達された郵便物の中に、撮影旅行中の恒夫からの絵葉書を見つけたりした時は、有頂天になるあまり、あぶなく目の前の配達人に「お茶でも飲んでいきませんか」と言いそうになるほどだったのを覚えている。  喘息の発作もめったに出なかった。身体は今からでは信じられないほど丈夫だった。恒夫と一緒に酒を飲み、やめなさい、と言われつつも面白がって恒夫の吸っている煙草を吸った。苦しげに咳こんだふりをし、恒夫に背中をさすらせては、ふざけ合ってそのまま二人でげらげら笑いながら畳の上を転げ回ることもあった。  一ケ月に一度は、外で恒夫と会った。恒夫の妻に知られないよう気をつけて、短い旅行に出たことも何度かあった。  旅先で見た紅梅や高名な陶芸家の窯、禅寺の清々しい庭園などは、即座に随筆のテーマに選んだ。きみは俺がいなかったら家の中のことしか書けない女だな、と恒夫にからかわれ、その通りだと思った途端、恒夫の存在がありがたくて切なくて、思わず涙してしまったことさえある。  それは三十年も前の、遠い日の自分だった。そして今、自分の傍で老いた自分の世話をしてくれている若い女は、恒夫の血を受け継いだ赤子を身ごもっているのだった。あと二ケ月もたたないうちに、自分は恒夫と血を分けた赤ん坊の顔をこの目で見、この鼻で肌の匂いを嗅ぎ、この手で愛撫することができるのである。誰も知らない、誰にも打ち明けたことのない、この不思議な因縁……そう考えると、春恵は若かったころのように身体の奥底が熱くなるのを覚える。  光を浴びた白い障子を見つめていると、気管支のあたりがむず痒くなった。春恵は口をおさえ、咳こもうとした。だが、喉の奥から出てきたのは咳ではなく、雑炊の味のする湿ったおくびだけだった。  志摩子が陣痛らしきものを訴え始めたのは、それから約一と月後、春恵が外出先から戻った時である。  いつもなら志摩子がただちに迎えに出て来て、春恵のコートやショールを受け取ってくれるはずなのに、現れる様子はなかった。  志摩子さん? と春恵は奥に向かって声をかけた。「いるの? お玄関の戸、鍵がかかっていませんでしたよ。不用心ね」  奥から足をひきずるような音が聞こえたかと思うと、人影がぬっと現れた。志摩子だった。上半身を折り曲げ、両腕を自分の身体に巻きつけるようにしていたが、志摩子は春恵の前に立った途端、茶色のソックスをはいた両足を大の字に拡げ、ふいに曲げていた身体を起こした。顔に苦痛の色が浮かび、苦しげなため息が口からもれた。  どうしたの、と春恵が声をあげたのと、志摩子がへなへなと崩れるようにして玄関の上がり框《かまち》にへたりこんだのは、ほぼ同時だった。 「多分これが」と志摩子は、首の後ろで束ねた髪の毛を乱しながら、消え入るような声で言った。「陣痛っていうものなんだと思います。先生がお帰りになる十分くらい前から、急に痛み出して……」  春恵は、今日が何日だったか思い返した。二月二十六日。予定日は三月に入ってからだったはずだが、人によっては十日や二週間、予定日が狂うことも普通なのかもしれない。 「だから言ったでしょう」春恵はどぎまぎしながらも、冷静さを保とうと努力しながら志摩子の腕を取った。「二月に入ったら、いい加減にお休みをとってちょうだい、って言ったはずですよ。犬や猫じゃあるまいし。大きなお腹をして、ぎりぎりまで働く人がどこにいますか」  腕を取り、抱え上げようとしたものの、次にどうすればいいのかわからなかった。病院に連れて行けばいいのだろうが、タクシーを呼べばいいのか、救急車なのか、ただの陣痛が始まったくらいで、救急車など呼べるものなのかどうか、経験のない春恵には皆目、見当もつかない。  破水、という恐ろしい言葉が頭に浮かんだ。志摩子の股の間からあふれ出た羊水が、玄関先に水たまりを作っている光景まで想像できた。怖くて胸が悪くなった。  志摩子のほうがはるかに落ちついていた。彼女は春恵に支えられながら、靴箱に両手をかけ、やっとの思いで立ち上がった。「大丈夫です。自分でわかります。生まれるまでには、まだまだ時間がかかると思います。ちょうどよかった。今日は夫が仕事を休んで家にいるんです。すぐに車で迎えに来てもらえますから、ご心配なく」  春恵に背を向けて、再び志摩子は歩き始めた。黒光りした廊下をよろよろとした足取りで進み、春恵が居間として使っている和室に入ると、おもむろに電話の受話器を取った。正座するのが辛いらしく、横座りになって股を拡げ気味にしながら片方の足を投げ出している。腹部の巨大な膨らみに比べ、青畳の上の足は驚くほど華奢《きやしや》に見える。 「車でここに迎えに来るそうです」しばらくぼそぼそと話しこんでいたが、志摩子は受話器を戻すなり、春恵を見上げて弱々しく微笑んだ。「かかりつけの産婦人科には夫から連絡させました。申し訳ありません、先生。ご迷惑をおかけしまして」 「何ていうお名前?」春恵は聞いた。自分でも何を聞いているのかわからなくなるほど、気が急《せ》いていた。 「は?」 「ずっと聞くのを忘れていたわ。志摩子さんのご主人のお名前は、高橋何さんとおっしゃるの?」 「ヤスヒコですけど」と志摩子は言った。どうして今頃、そんなことを聞かれるのか、理解できない様子だった。「保つという字に彦と書くんですが……それが何か?」  別に何でもありません、と春恵は言った。「聞いておきたいと思っただけ」  胃の底が熱くなった。ヤスヒコ。保彦。高橋保彦。恒夫の息子。この世でもっとも、私に望まれずに生まれてきた子供。その子供が、まもなく目の前に現れる……。  すみませんが、横にならせていただきます、と志摩子は言い、畳の上に横になった。よほど苦しいのか、目を閉じて、唇をぽかりと開けたまま、深く荒い呼吸を繰り返している。ざっくりと編まれた萌葱《もえぎ》色のタートルネックセーターの下、乳をたたえて張り詰めた二つの乳房が、呼吸をするたびにゆったりと揺れ続ける。時折、志摩子の口からかすかな喘ぎ声がこぼれ出る。  その声が、かつての自分と恒夫との情交の際の喘ぎ声と重なった。こんな時に、何故、そんなことを思い返すのか、わからなかった。  春恵は志摩子の傍に腰をおろし、志摩子の手を握ってやった。おずおずと握り返してくる志摩子の手は、信じられないほど柔らかく、ひどく汗ばんでいた。 「痛いのね。かわいそうに」 「そんなことありません。まだまだ我慢できます」 「あなたなら、元気な赤ちゃんが生めるわ。もうすぐよ。もうちょっとの辛抱よ」 「先生、ごめんなさい、ごめんなさい」志摩子は春恵の手を振り払い、仰向けになったまま、両手で顔を被《おお》った。泣いている様子だった。「こんなふうになってしまって、ごめんなさい。先生のおっしゃる通り、もっと早くお休みをいただいていればよかった。そうすれば、先生にご迷惑をかけずにすんだのに。こんなにみっともない姿をお見せしなくてすんだのに」 「いいのよ。そんなこと気にしないで。丈夫な赤ちゃんを生んでちょうだい。ね? 今あなたが考えなくちゃいけないのは、それだけですよ」  春恵は自分の声がうわずっていることに気づいた。まるで自分が子供を生もうとしているみたいだ、と思った。恒夫と自分の赤ん坊……いたたまれなくなるほどの羞恥心が彼女を満たした。  火の気といったら炬燵《こたつ》だけで、ストーブの火もついていない冷え冷えとした部屋だというのに、志摩子の額にはうっすらと汗が浮いていた。春恵は着物の袂から小さなガーゼのハンカチーフを取り出し、額を拭いてやった。志摩子の透明な汗はたちまちガーゼに吸い取られ、ハンカチーフはぼってりと湿って重くなった。  外に車が停まる気配がしたのは、それから二十分ほどたってからである。玄関ブザーが鳴り響き、ガラス張りの引き戸が慎み深くノックされた。  起き上がろうとする志摩子を制し、春恵が玄関に走り出た。はい、と声をかけた。曇りガラスの向こうに立った影がわずかに動き、「高橋ですが」というくぐもった声が聞こえた。  引き戸の鍵をはずす手が震えた。目の前に男が立っていた。背の高い、骨ばった感じのする痩せた男だった。 「お世話になっております」彼は春恵に向かって不器用にお辞儀をしながら言った。「女房がこちらに……」  よほど慌てているらしく、春恵の顔をまともに見ようともしない。家の奥に視線を投げ、今にも中に飛び込んできそうな勢いで足踏みを繰り返している。  運命の出会いだった。春恵はまじまじと保彦を見上げた。少ししゃくれた顎といい、涼しげな目元、男にしては長く黒い睫毛《まつげ》といい、恒夫の面影をそこかしこに見つけることができる。紺色の着古したセーターに、薄汚れた感じのするジーンズ姿。着るものに頓着しない、というあたりも父親とそっくりだ。 「初めてお目にかかります」春恵は言った。ひどく場違いなセリフに聞こえたのか、保彦は半ば苛立ったような表情で、春恵を一瞥した。  視線と視線が交錯した。だが、それだけだった。彼の目は春恵を見てはいなかった。彼は志摩子のことしか考えていないようだった。  志摩子が背を丸めたまま、玄関に出て来た。一旦、陣痛が遠のき、気分がよくなったらしい。先生、本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした、と言い、彼女は泣き出しそうな顔をして春恵に頭を下げた。  保彦が志摩子を抱きかかえるようにしながら、外に連れ出した。門の外に停まっていたのは、ドアの部分に錆《さ》びた傷跡が残されている、ありふれた白い小型乗用車だった。  志摩子を後部座席に座らせると、保彦は再び駆け足で春恵のところに戻って来た。 「バッグを忘れたそうです」 「バッグ?」 「女房のです。台所の調理台の上に載せてあると言ってるんですが……」  春恵が台所に行ってみると、確かに調理台の上に、いつも志摩子が持ち歩いている小さなショルダーバッグが載っていた。バッグを手に玄関に引き返し、春恵は保彦に向かって笑みを浮かべた。 「こんな時に、呑気《のんき》なことを伺うようで気がひけるのですけど」春恵はそう言い、靴箱の上の恒夫の写真を指さした。「この写真をご存じじゃないかしら」  保彦は写真に視線を投げた。顔色は変わらなかった。この写真がどうかしたのですか、と言いたげに彼は春恵を見た。 「若いからご存じではないかもしれませんね。有名になった写真なんですけど、なにぶん古いものですから。でも写真部にお勤めだというし、もしかすると写真にお詳しくて、知ってらっしゃるかと思って……」  保彦はもう一度、写真に目をやった。だが、言葉はなかった。  春恵は大きく息を吸い、吐き出す息の中で言った。「どなたが撮影したのか、ちょっと知りたかったものですから」  保彦は春恵を見つめ、こくりとうなずき「そうですか」とだけ言った。  保彦の無表情が恐ろしかった。そこにあるのは、軽蔑でもなく怒りでもなく苛立ちでもない、ただの無関心でしかなかった。春恵は不器用な質問をしてしまった自分を恥じた。 「やっぱりご存じなかったみたいね」  彼はイエスともノーとも言わなかった。代わりに薄く笑っただけだった。「どっちみち、昔の人ですよね」  どんなつもりでそう言ったのか。昔、有名になった写真を撮って一世を風靡した人間でも、今となってはただの昔の人ですよね……そう言ったつもりだったのか。それとも、かつて父親と愛人関係を結んでいた女に対する哀れみのつもりで吐いたセリフだったのか。  いや、そんなはずはない、と春恵は思った。父親である恒夫の二十年にわたる愛人が、この自分であることを保彦が知っているわけはなかった。保彦の母親──恒夫の妻──が夫の情事に気がついていて、後で息子に教えたとも考えられるが、だとしたら、保彦は妻である志摩子がそんな人間のところで働くことを承知しなかったはずである。  だが、この青年は知っている、と春恵は確信した。この写真が、自分の父親の撮ったものであることを彼はよく知っている。「どっちみち、昔の人ですよね」……それは、この写真を撮影した人間を知っている者にしか口にすることのできない言葉ではないだろうか。身内に対する照れが、そうした皮肉まじりの言葉になって返ってきたのではないだろうか。  保彦はそっと春恵の手から志摩子のバッグを受け取り、「お世話様でした」と言って一礼した。「無事に生まれたら、真っ先にこちらにご連絡します」  春恵はうなずいた。「待っています」  まもなく外で、車のエンジンの音が響きわたった。保彦と志摩子の乗った車はブロック塀の外の道を呆気なく走り去って行った。  男の子を出産した志摩子は、産後の経過もきわめてよく、五日目に早々と退院し、それから二週間ほどたってから春恵のところに挨拶にやって来た。赤ん坊と夫の保彦も一緒だった。  志摩子も保彦も改まった装いだったが、それ以上に春恵も改まっていた。そのうち、夫と子供と三人でご挨拶に伺います、と志摩子から連絡があってから、春恵は日に三度は箪笥を開けて、彼らに会う時はどの着物を着ようか、どの帯をしめ、帯じめは何にしようか、と考え、悩み、同時に楽しんでいたのである。  三月も半ばになっているというのに寒い日だった。朝からの曇り空に加えて、底冷えがするほど気温が下がり、春恵は赤ん坊の身体にさわるのではないか、と気をもんだ。  いつもの茶の間ではない、来客用の和室に親子を通し、灯油ストーブの傍に赤ん坊を抱いた志摩子を座らせた。志摩子は台所に立ちたがったが、春恵はそれを制し、紅茶をいれ、用意しておいたケーキと一緒にふるまった。志摩子は始終、恐縮し、春恵に向かって詫びてばかりいたが、それでも胸に抱いた赤ん坊から目を離そうとせず、隣に座っている保彦までが、時折、満面に笑みをたたえて妻の腕の中の小さな命をのぞきこんでいるのが微笑ましかった。  籠に盛ったみかんを運び、台所との行き来が一通り終わると、春恵は座に戻り、志摩子と保彦に向かって改まった調子で微笑みかけた。「このたびは本当におめでとう。志摩子さんにはいつもよくしていただいているし、その志摩子さんに赤ちゃんが生まれたなんて、なんだか自分のことのように嬉しいですよ」  志摩子は「ありがとうございます」と言って頭を下げた。  少し太ったのか、頬といい、肩の線といい、どこもかしこもふっくらと丸みを帯びている。まっすぐ伸ばした長い髪は、その日は束ねてはおらず、両耳にくるりとかけているだけだったが、何本かの髪の毛がこぼれ落ち、赤ん坊をあやす彼女の頬を柔らかくくすぐっている。化粧っけのないその顔はますます恒夫の写真の女性モデルに似てきたようで、はっとさせられるほどである。  保彦はというと、どことなく素っ気ない態度は相変わらずだった。照れ屋なのか、もともと無口な人間なのか、会話のほとんどを志摩子に任せきりにし、春恵相手に愛想のひとつも言おうとしない。  恒夫とそっくり、と春恵は思う。恒夫も相当の照れ性だった。殊に初対面の人間に対してはろくに口をきかず、悪印象を与えてしまうこともしばしばだった。  ほんの少しだけお愛想を言うようにすれば、あなたは誤解されずにすむのに、と何度、春恵は言ったことか。そのたびに恒夫は短く笑い、それができれば俺は別の人間になっていたし、第一、きみとこんなふうにならなかったよ、と言った。  どうして? と聞き返すと、黙ってしまう。説明しようと努力すれば、難なく説明できることでも、恒夫にかかると中途半端に終わるのが常だった。仕方なく春恵が恒夫の言わんとしていることを代弁する。外でお愛想のひとつも言えるような人間だったら、もっと派手に人間関係の幅をひろげ、世間のしがらみをたくさん作って、私なんかともこんなに長く続けられなかった、っていうことかしら。そう聞くと、恒夫は少し考えた後、うん、とうなずく。そうだね、その通りだ、と。そして、それから後、一切、自分からはその話をしなくなるのだった。 「先生」と志摩子が言った。「この子、抱いてみてくださいますか」  春恵は年甲斐もなく、顔が赤らむのを覚えた。「いいの?」 「もちろんです。先生に抱いていただきたいと思って連れてきたんですから。写真を撮らしていただいて、この子が大きくなったら見せてやるつもりです。あんたはお母さんの尊敬する先生に抱っこされてるのよ、って。ありがたく思いなさいよね、って」志摩子は幸福そうに笑い、保彦のほうを見た。「あなた、写真撮ってね」 「わかった」保彦がぼそりと言いながら、カメラの用意をし始めた。  赤ん坊は、若草色のおくるみにくるまれ、しきりと乳くさい匂いを発散していた。春恵はあやすようにして抱きかかえながら、赤ん坊の顔に恒夫の面影を探し続けた。  偏平な鼻も、少しめくれあがったように見える唇も、赤ん坊特有のもので、恒夫とは似ても似つかない。だが、それでも自分が腕に抱いた赤ん坊の重みが、恒夫の血を受け継いだ命の重みである、と思うと、胸が熱くなり、曇ってくる視界をどうすることもできなくなる。 「先生、泣いていらっしゃる」志摩子は囁くように言った。志摩子の目にも光るものがあった。  春恵は微笑んだ。「嬉しいのよ。心から喜んでいるのよ。あなたの赤ちゃんを抱っこできて、幸せだと思っているのよ」  保彦が二人の女と赤ん坊にカメラを向けて、シャッターを押した。フラッシュの閃光に驚いた赤ん坊が、わずかに身体をくねらせた。 「怖かったのねえ。パッ、パッ、って何か怖いもんが光ったんですものねえ」志摩子が赤ん坊に笑いかけた。  赤ん坊はさらに身体を動かし始め、あくびなのか、泣きだす一歩手前なのか、小さな口を開けてぱくぱくさせた。春恵はあやし続け、志摩子もそれに合わせるように赤ん坊に話しかけた。座が賑わった。 「私としたことがうっかりして」春恵は急いで目尻の涙を拭い、赤ん坊を抱いたまま聞いた。「赤ちゃんの名前を聞くのを忘れていたわ。何てつけたの?」  カメラを構えたままでいた保彦が、「源太です」と言った。シャッター音と共に、もう一度、フラッシュの閃光が走った。「ミナモトが太いと書いて、源太と読ませます」 「あらあら、素敵な名前だこと」春恵は微笑みながら、赤ん坊に顔を近づけた。乳の匂いが強まった。「強い男の子になるわ、きっと。源太くん、源太くん。はじめまして。よろしくね」 「亡くなったおじいちゃまの名前から、一文字いただいたんですよ」志摩子が赤ん坊のおくるみに指をかけながら言った。  春恵は顔を上げた。  志摩子は首を傾けて保彦を指さした。「この人の父親です。源次郎っていう名前だったものですから」 「ゲンゴロウっていうあだ名だったそうですよ」保彦が少しくつろいできたのか、座布団の上であぐらをかいた。「いっそ、この子はゲンゴロウにしちゃおうか、って言ったんですけどね。志摩子に猛反対されまして」  志摩子はくすくす笑った。「当たり前でしょう? そんな名前、つけるわけがないじゃない」 「悪くないと思うけどな。高橋ゲンゴロウ。いいよ、なかなか」 「よくないわ、ちっとも」志摩子は笑い、春恵の腕の中の赤ん坊の頬を撫でた。「ねえ、源太。ゲンゴロウだなんて、全然、よくないわよねえ」  今の自分は、さぞかし間のぬけた表情をしていることだろう、と春恵は思った。笑えばいいのか。失望すればいいのか。それとも悲しめばいいのか。それすらもわからなかった。  考えてみれば、高橋という苗字はありふれた苗字だった。中学のころに父親を亡くした高橋姓の一人息子というのも、探せばごまんといるはずである。その死んだ父親が写真関係の仕事をしていたとなると、該当する人の数は一挙に少なくなるに違いないが、たとえその条件を満たしたとしても、それが、あの高橋恒夫の息子であるとは限らないのである。  夢を見ていた、と春恵は思った。馬鹿げた滑稽な夢。老いゆく女にふさわしい、愚かしいほどおめでたい夢。  腕から力がぬけていくような感覚にとらわれた。抱いている赤ん坊が、畳の上に頭からすべり落ちていく幻覚を見たように思った。春恵は慌てて、赤ん坊を強くかき抱いた。  締めつけられたせいだろう、赤ん坊がむずかり始めた。志摩子が代わりに抱き上げ、優しく揺すりながらあやしたのだが、いっこうに泣きやまない。そのかん高い、不思議な鳥のざわめきのような泣き声は、やがてストーブの上で湯気を上げている鉄瓶の蓋のカタカタという音と共鳴し合いながら、平和に賑やかに室内を満たしていった。  二時間ほどたって、志摩子と保彦はいとまを告げた。外には、白いものがはらはらと舞っていた。春の雪だった。  来月からまた、元通り、お世話させていただきに参ります……そう言いおいて車に乗りこんでいった志摩子は、助手席の窓を開け、慎み深く手を振った。春恵も手を振り返し、気をつけてね、源太ちゃんに風邪をひかせないようにね、などと繰り返した。保彦は遠慮してか、なかなか車を出そうとしない。  志摩子があまりに長い間、手を振り続けていたので、やっと車が動き始め、降りしきる雪の中、スピードを落としたままゆっくりと角を曲がって見えなくなった後も、春恵の目には、志摩子の白い手がいつまでもひらひらと動き続けている幻影が焼きついてしまったように思われた。  雪のかけらが次から次へと、春恵の首すじ、白髪のまじった髪の毛、着物の肩のあたりに舞い降りるなり、一瞬にして溶けていった。暖かな雪だった。少なくとも春恵にはそう感じられた。  春恵は玄関に戻り、引き戸を閉め、螺子《ねじ》式になっている鍵をかけた。鍵をかけるのは、長年の習慣だった。恒夫はかつて、出入りのたびにいちいち鍵をかけられると、締め出されているような感じがする、と言ったことがあるが、この習慣だけはやめられない。恒夫が訪れてくれた時、引き戸の曇りガラスの向こうに彼の大きな影が映っているのを見ながら、浮き立つ気持ちの中で螺子式の鍵を開ける……その一瞬がどれほど幸福な一瞬だったか、春恵は今もありありと思い出せる。  転ばないよう、靴箱に手をかけながら履いていたサンダルを脱ぎ、上がり框に膝をついて丁寧にそろえ直した。雪のせいか、早くもあたりが薄暗くなっていたので、玄関灯のスイッチを入れた。保彦と志摩子が履いたスリッパを元のスリッパ立ての中に戻した。  そうしながら、春恵は壁に掛けられた恒夫の写真を見つめた。写っている男のモデルが若き日の恒夫であり、女のモデルが現在の志摩子であるなどと想像し、密かな夢の世界で遊んでいた自分が恥ずかしかった。永遠に取り戻すことのできないものをそうとわかっていたずらに弄び、夢に置き換えて楽しんでいるうちに、いつの間にか春恵は、現実と虚構の区別がつかなくなっていたようだった。  そろそろ、と春恵は声に出して、誰に言うともなく言った。「この写真もはずしましょうか」  はずしてしまえば、靴箱の上に気に入った花器を置いて花を飾ったり、絵やタペストリーやちょっとした掛け軸などを壁に掛けて楽しむこともできる。この写真が見えなくなれば、過去は過去として自分の記憶の中に正しく位置づけられ、二度と現実と混同せずにすむように思われた。  春恵はそっと写真の入った額を持ち上げてみた。わずかな埃が舞い、額で被われていた壁の部分に、歳月のもたらした黒い垢が染みついているのが見えた。  額をはずし、靴箱の上に伏せて置いた。いっぺんに壁が寒々しくなり、あたりの温度が急に下がったような感じがした。  雪がやんだら、久しぶりに新宿にでも出て、ここにふさわしい絵をみつくろってこよう……そう思った。  春恵の目が、伏せた額の裏側に吸い寄せられた。粗削りの木製の薄い板の部分に、かすかに文字が残されている。黒のサインペンか、もしくは墨で、斜め右上がりになるように書かれた文字である。  膨大な時の流れが一瞬、春恵の頭の中で嵐のように吹き荒れたかと思うと、まるで巨大な集塵機で吸い上げられるようにして、瞬く間に消えていった。  喉が詰まり、鼻の奥がにわかに熱くなった。忘れていました、と春恵は再び声に出して言った。すっかり忘れてしまっていましたよ。だって、こんなに昔のことなのだもの。  かつて恒夫が撮影し、恒夫が愛し、たとえいっときにせよ、世間に恒夫の名をひろめてくれたこの写真のタイトルが、二十八年の歳月を経て、再び春恵の目の前に現れた。  懐かしい恒夫の筆跡で、そこにはこう書かれていた。 『遠い日のエロス』 [#改ページ]    静かな妾宅  小部屋の窓から差しこんでくる日差しは弱々しい。窓の外に、葉を落としかけた欅《けやき》の木があり、その枝が風に吹かれてゆらりゆらりと揺れている。  素子は煙草が吸いたかった。目の前にいる二人の刑事は、さっきから旨そうに煙草を吸っている。部屋に入ってからすぐ、一本どうか、と勧められたが、断った。断らなければよかった、と思い、そう思えば思うほど、煙草のことしか考えられなくなる。 「あんたも見かけによらず強情だね」猪首《いくび》の刑事が、鼻から煙を吐き出しながら言った。光の中で紫煙が渦をまいた。  素子は黙っている。黙ったまま、目の前の灰皿に落とされていく煙草の灰を見つめている。 「これ以上、黙ってたって、苦しいだけだろう。きれいに証拠もそろってるんだ。逃げられっこないのに、何を頑張ってんだよ。さっさと吐いて、すっきりすりゃあいいのに。そうだろう。え?」  素子はふいに「あの」と言って、顔を上げた。一瞬の間があった。猪首は慌てたように灰皿で煙草をもみ消すと、机の上に上半身を乗り出した。もう一人の、あばた面をした若手の刑事が、つかつかと素子のほうに近寄って来た。四つの目が素子をとらえた。  もじもじしながら、素子は二人の男の顔を交互に見つめ、うっすらと笑いかけた。そして、机の上に放り出されたままになっていた煙草のパッケージをそっと指さした。 「煙草、ください」  おめかけさん……素子はその言い方が気にいっていた。  愛人という言葉には、どこか後ろ暗くて淫靡《いんび》な響きがある。第一、低俗で安っぽい。だが、おめかけさんという言葉には、突き抜けたような清々しさが感じられる。  一度、住んでいるマンションのゴミ集積所で、近所の主婦たちが自分のことを噂しているのを耳にしたことがあった。301号室の人、おめかけさんなんですってよ……その時も、素子は誇らしささえ感じたものだ。  おめかけさん、と言われて嬉しかったことを橋爪に教えると、彼は小さく笑って目を細めた。素子はほんとに変わっているね、と彼は言った。「一緒にいると飽きないよ」 「ずうっと一緒にいて」と素子は言った。「死ぬまで。ううん、死んでからもずっと」 「そうしたいね」と橋爪はまた笑った。  素子は二十七歳。橋爪は七十五歳だった。知り合ったのは三年前だが、七十二の橋爪も七十五の橋爪も、老人であることに変わりはない。素子と親しくなってからは、少し太ったような気もするが、だからといって老化が進んだということにはならない。  三年の間に老化が進んだのは橋爪ではなく、むしろ自分のほうではないのか、と素子は思い、その兆候を鏡の中に発見するたびに嬉しくなった。このまま自分だけが猛スピードで老けていけば、橋爪に追いつける。オジイチャンとオバアチャンになってしまうことができたら、ふたりが離れ離れになることはないだろう。うまくいけば、一緒に死ぬことだってできるかもしれないのだ。  ふたりで風呂につかっている時など、橋爪は惚れ惚れしたような目で素子を見つめ、なんてきれいな肌なんだ、とためいきをつくことがよくあった。素子はそう言われると、すぐ不機嫌になった。彼女は、若さということに対して、なにほどの誇りも喜びも抱いていなかった。若さはかえって苦痛だった。橋爪が遠くに感じられ、手を伸ばしても届かないところに彼がいるような、そんな気持ちにさせられるからだった。  たまにふたりで旅行すると、ホテルや旅館などで必ず「お嬢さま」と呼ばれる。「お父さまがあちらでお待ちです」と。 「父じゃありません」と素子が言うと、相手はとたんに恐縮したように顔を赤らめ、言い替える。 「失礼いたしました。おじいさまがあちらで……」  そんな時、素子は自分と橋爪との途方もない距離を感じて悲しくなる。それは単に年齢差による距離でしかなく、ふたりの濃密な関係にはつゆほども影響しない、とわかっていながら、それでもやっぱり寂しさは拭えない。 「違うんです。彼は私の……」そう言いかけて、素子はその先が続けられなくなり、目をそらす。彼は私の何なのだろう。パトロン? 旦那? 恋人? 親代わり? どれでもない。ふたりの関係を表現する呼び名などこの世にはなく、そのことを誰にもわかってもらえないことが何よりも辛いのだ。  中学の時、両親が離婚し、素子は母親に引き取られた。しばらくして母は再婚したが、相手は母よりも十三歳年下で、少年のように若く見える男だった。  母はその男に夢中だった。ろくに職に就こうともしない男のために、身を粉にして働き続けた。その献身ぶりは素子の目にはむしろ浅ましくさえ映った。母は義父との甘い時間を過ごしたくなると、いそいそと素子に金を与え、デパートで素敵な洋服でも見てらっしゃい、と言った。早く帰るといやな顔をされた。夜中過ぎまで新宿をうろつき、補導されたこともある。  誰からも自分は愛されていないのだ、と思っていたから、補導されても平気だった。盛り場で男に声をかけられると、どこにでもついて行った。男に媚びて、愛情のおすそ分けをねだる術も覚えた。  ある時、母の留守中、若い義父は「モトちゃんはいい身体をしてるんだね」と言った。そして、好きだ、会った時からずっと大好きだった、と妙な喘ぎ声を出しながら手を伸ばしてきた。  一瞬でもかまわない、誰かに優しくしてもらいたい……そう思って、義父に身を任せた。別に汚らわしい行為だとは思わなかった。ただ、堕ちていく自分を感じただけだった。  部屋の布団の上で、裸で抱き合っていたところを帰って来た母に見られた。母は怒り狂い、その場で素子を外に放り出した。義父はおどおどするばかりで、何も言わなかった。十七歳になった年の夏の出来事だった。  以来、橋爪に出会うまで、数えきれないほど男と寝てきた。生きるためにそうしたのであれば、まだしも救われていた、と素子は思う。誰かに愛されたいばかりに、そうしていた自分は、愚かしいと言うよりも惨めったらしい。橋爪が現れなかったらどうなっていたか、想像するだけで虫酸《むしず》が走る。  素子は老人のもつ乾いた匂いが好きだった。枯れていく人間は清潔だ。脂も胆汁も汗も何もかもが乾いていき、砂のようにさらさらになって、風に吹かれて散っていく……そんな感じがする。  橋爪はどちらかというと痩せ型で、細面の華奢な男だった。真っ白な髪の毛は豊かだが、弱々しくて猫の毛のように柔らかい。皺が刻みこまれた顔は、どこもかしこも清潔に乾いていて、触れると指先に皮膚のかけらがこぼれ落ちてきそうだった。  若いころから、酒も煙草もやらず、おまけに生来、少食で、恋わずらいしている少女のように毎度毎度、食事を残す。素子自身、食べるということにあまり興味がなかったので、ふたりでいるとつい、食事をしたり飲物を飲んだりすることを忘れてしまう。一日中、何も食べずにいたこともあり、そんな時には、橋爪の身体がますます枯れていき、自分もまた、そこに一歩、近づいたような気がして嬉しかった。  橋爪のおしっこの時間が長いのも、素子の好きなところだった。  彼がトイレに行くと、素子がTVを見たり、雑誌をめくったりしている間中、長い長い、ちょろちょろという可愛らしい音が聞こえてくる。途中で止まったり、また出たり、やがて何の音も聞こえなくなって、ああ、もう終わったのかな、と思ってもまだ水を流す音が聞こえてこない。彼がトイレにいるということすら忘れかけ、あら、どこに行ったのかしら、と思うころになって、やっと姿を現す。そんな橋爪を見つけると、愛らしくていとおしくて、素子は思わず抱きしめてやりたくなってしまうのだった。  橋爪はカーテンや壁紙などを扱う大きな会社を経営していた。資産がどのくらいあるのか、その種のことに興味のない素子は聞いたこともない。素子のために高輪に瀟洒《しようしや》な二LDKのマンションを借り、月々、多過ぎるくらいの生活費を渡してくれるところをみると、素子などには想像もつかないほどの資産家なのかもしれなかった。  息子がふたりいる、と聞いていたが、彼らが何をしているのか、橋爪の会社の跡を継ぐのかどうか、それともまったく別の仕事をしているのか、素子は知らない。教えられたこともあったはずだが、忘れてしまった。橋爪がどんな家庭を持っているのか、そんなことは素子にとって、どうでもいいことだった。だから、時々、彼に妻がいたことすら忘れてしまう。  ああ、この人には奥さんがいたんだ、と思い出すのは、橋爪の妻が入院したり退院したりした時だけ。そういう時、橋爪は素子のところに来ても、泊まらずに帰ってしまう。寂しく思うことはあっても、嫉妬を感じたことは一度もない。橋爪に妻がいるという事実は、自分にも母がかつていたという事実と同じくらいの重みしかもっていなかった。  橋爪は四十二の時、交通事故にあい、それが原因で男としての機能を失っていた。彼と初めて旅に出かけたとき、素子はその事実を告げられた。  別段、驚きはしなかった。橋爪のきめ細かい穏やかな愛情表現はそのせいなのだ、とわかり、いっそう、彼がいとおしく感じられた。 「だから、わたしはきみを束縛するつもりはないんだよ」と彼は優しく言った。「きみのような若い女性をこんな役立たずの年寄りに縛りつけておくなんて、わたしに言わせれば犯罪行為だ。きみはわたしが望んだ時、わたしの傍にいてくれるだけでいい。あとは何をして遊んでもかまわない。本当だよ。いい人が出て来て、結婚したくなったら、その時は正直にそう言いなさい。わたしが責任をもって、支度をしてあげよう」 「多分、結婚したくなるなんてこと、ないと思うわ」と素子は言った。「それに男とつきあうこともないと思う。そういうことに飽き飽きしたから、あなたのところに来たんだもの」 「飽き飽きするほど男とつきあってきたのかい?」 「いけない?」  いいや、ちっともいけないことなんかじゃないよ……そう言って橋爪は微笑んだ。「素子らしくて、いい話だ」  橋爪の愛称はポンコという。ふたりでデパートのおもちゃ売場に行った時、ポンコという名のクマのぬいぐるみがあり、そのクマの優しげな表情が橋爪にそっくりだったので、それ以来、素子は彼をポンコと呼ぶようになった。  深夜、ベッドで毛布にくるまりながら、隣にいる橋爪の寝息を聞いていると、ふいに取り残されたような寂しさがつのってきて、いたたまれなくなる。そんな時、素子は「ポンコ」と彼を呼ぶ。「ポンコ、起きて。こっちを向いて」  橋爪は眠そうなためいきをつき、それでも一生懸命、力をふりしぼるようにして彼女のほうに身体を向ける。目を閉じたままの顔に、皺の寄った笑みが浮いている。かさかさした感じのする腕が伸びてきて、彼女の背中をゆっくりとさすり始める。  どこにも行かないで、ポンコ。ずっとここにいて。  そう囁くのだが、耳に入っているのかいないのか、素子の背にあてられた橋爪の手の動きがおぼつかなくなる。やがて完全に動きが止まり、笑みが浮かんだままの唇がかすかに開かれる。そこから、軽いいびきがもれてくる。  眠っている時の橋爪は、人形のようにおとなしい。ほとんど寝返りを打たず、シーツに足をこすらせる音もたてない。  窓の向こうの大通りを救急車が走り抜けて行く。その間の抜けた感じのするサイレンを遠くに聞きながら、素子は薄闇の中でしっかりと目を開け、朝までポンコの顔をこうやって眺めていたい、と思うのだった。  銀座で自分の店を持つことができた昭代から、開店祝いのパーティーに是非、顔を出してほしい、と連絡があったのは、半年ほど前のことである。  昭代は、かつて素子がアルバイトをしていた〈パルファム〉という小さなクラブで、雇われママをしていた女だった。いいスポンサーができて、いろいろ助けてもらったのよ、と、電話口で昭代は嬉しそうに声を弾ませた。「だから、ね? モトちゃん、絶対に来てよね。狭いけど、悪くないお店にしたから。気にいってもらえると思うわ。よかったら、橋爪さんも一緒に連れてらっしゃいよ」  橋爪はかつて、〈パルファム〉の常連だった。酒は飲めないが、気前がよく、そのうえ上品な紳士だというので、女の子たちに人気があった。すぐに素子を見染めたくせに、少年のように恥じらって何も言い出せずにいた橋爪を鋭く見抜き、いわばキューピッド役をかって出てくれたのは昭代だった。昭代には恩があった。素子はパーティーには喜んで出席する、と答えた。  橋爪を誘ったが、彼は華やかな席は疲れるだけだから、と控えめに断った。「ひとりで行っておいで。ゆっくり羽を伸ばしてくればいい」  羽なんか伸ばすつもりはないし、そうしたいとも思わない、私が一緒にいたいのはポンコだけなのよ……素子がそう言うと、橋爪は微笑みながら、首を横に振った。「素子はもう少し、自分の人生のことをまじめに考えなくちゃいけないね。まだ若いんだ。いろいろな人間と知り合える時期に、部屋にこもってばかりいてはいけない。外に目を向けて、自分の幸せをつかまなくては」 「私は今が幸せなのよ。ここでこうやって、ポンコと一緒にいることが幸せなのよ。どこにも行きたくないし、誰とも会いたくない。どうして、わかってくれないの?」 「若いうちは誰でも、そんな気持ちになることがある」橋爪は乾いた指先で素子の額にかかった髪の毛をそっと払いのけた。「一種のハシカみたいなものだろうね。自分に酔っているだけなんだ。そのうち、素子はわたしから巣立って行く。巣立たなければいけない。わたしのことを哀れに思わないでほしいんだ、素子。わたしは愛している女性には、決して同情されたくない。いい年をしてカッコつけていたいんだよ」 「哀れに思うわけがないでしょう。私はただ、ポンコが大好きで、だから……」  しーっ、と橋爪はあやすように口元に指をあてた。「いいからひとりで行っておいで。わたしはここで待っている。あとでたくさんの楽しかった話を聞かせておくれ」  パーティーの夜、素子がすっかり行く気を失って、それでも、かろうじて橋爪に買ってもらったスーツに身を包み、昭代の店に出かけてみると、着飾った昭代が彼女を見つけ、嬌声をあげながら抱きついてきた。 「会いたかったわあ、モトちゃん。しばらくねえ。今日は来てくれてありがとう。おかげさまで、大盛況よ」  さほど広くない店内では、大勢の客がグラスを片手に立ったままひしめき合っていた。まるでラッシュ時の満員電車だ、と素子は思った。 「あら、ひとりで来たの? 橋爪さんは?」 「ちょっと都合がつかなくて。ごめんなさい」 「残念だわあ。でもモトちゃん、元気そうでよかった。今夜は楽しんでってね」そう言うと、昭代はいたずらっぽく目配せしながら耳うちした。「ごらんなさいよ。若い男たちも来てるわよ。たまにはああいうのを味見するのもいいんじゃない?」  あいにくお腹がいっぱいなの、と素子は笑顔のまま、言った。「間に合ってるわ」  ああら、それはごちそうさま……昭代はげらげら笑いながら、去って行った。  牛島を見つけたのは、その直後だった。彼の顔を見るまで、彼がこの場にいるかもしれない、と微塵も考えなかった自分が可笑しかった。彼がここに来ていても、ちっとも不思議ではなかったのだ。  牛島も素子を見つけ、人の波をかきわけながら急ぎ足で近づいて来た。「素子じゃないか。いやあ、嬉しいなあ。会えるとは思ってなかった」  素子は微笑み返した。牛島と会うのは四年ぶりくらいだった。橋爪のおめかけさんになるまで、やはり〈パルファム〉の常連だった牛島と何度か身体の関係を持った。そのうち牛島が恋人気取りで素子を誰彼かまわず人に紹介し、結婚を口にし始めたため、嫌気がさし、別れた。  モトちゃんに肘鉄を食らわされたものだから、牛島さん、立ち直れなくなってるみたいよ……昭代からそう聞かされたが、退屈なドラマのナレーションを聞いているようにしか思えなかった。牛島には初めから興味はなかった。興味がないからこそ、簡単に誘いにのることができたのだ。 「元気?」と素子は聞いた。  元気だよ、と牛島は言った。「相変わらず独身だけどさ。でも、おかげさまで仕事のほうは順調そのものでね。TVで僕の声、聞いてくれてる?」  とっさに何の話なのか、思い出せず、素子は時間を稼ぐためにテーブルの上からキャビアが載ったカナッペをひとつ取り上げた。牛島は声優だった。そう言えば、最近、子供たちに人気のあるTVアニメ『がんばれドンキー』で、主役のロバの声を出し、絶大な人気を博していると、昭代から聞かされたばかりだった。 「アニメはあまり見ないから」と素子は言い、カナッペをかじった。「でも、そのうち是非、見せていただくわね」  牛島は「そうしてよ」と言い、小鼻を拡げて好色そうな目つきをした。「素子、ちっとも変わらないなあ。幸せにやってるみたいだね。じいさんはどう? 元気?」 「橋爪のこと?」と素子は聞き返した。もちろんだよ、他に誰がいる、と牛島は攻撃的な笑顔を作った。 「あの人は私の祖父じゃないの。だから、名前で呼んでくれないとわからなくなっちゃうわ」  ごめんごめん、と牛島は言い、力んだように前に進み出て来て、つと、素子の腕をとった。「せっかくこうして会えたんだ。いいだろう? 今夜はきみのエスコートをさせてくれよな」  ご自由に、と素子は口の中で言ったが、牛島に聞こえた様子はなかった。  その晩、素子は牛島が運転する車に送られてマンションに帰った。マンションの前で車を降りようとした時、膝に手を伸ばされ、振り払うと、力ずくで抱きしめられた。  抵抗しながら、思わず「ポンコ」という名が口から飛び出した。「ポンコに言いつけるわよ」 「ポンコ?」 「橋爪のこと。そう呼んでるの。ねえ、お願い。私には橋爪がいるの。送っていただいたことは感謝してるけど、二度とこんなことしないでください。私は昔の私じゃないんですから」  ははっ、と牛島は笑い、「ポンコねえ」とつぶやきながら、身体を離した。そして、急に大まじめな顔をしてみせると、まっすぐに素子を見つめた。「品のないことをして悪かった。あやまるよ。でもな、素子。そのポンコさんとやらは、もう七十五になるっていう話じゃないか。さっき昭代から聞き出したんだ。金のためにきみが彼と一緒にいるのはかまわないが、老人はしつこいぜ。気をつけたほうがいい」 「どういう意味?」 「気がついたらがんじがらめにされて、身動きできなくなってる、ってこともある。僕の周囲でそんなケースが実際に起こってるんだ。金で縛られてるもんだから、女のほうも逃げ出そうにも逃げられなくてさ。まして立場が立場だから訴えるわけにもいかないし。なあ、いいころ加減で身をひいたほうがいいよ。これはまじめな話だよ。若い身空で、何も七十五のじいさんに心まで売る必要はないと思うけどな」  素子は怒りを隠しながら、じっと前を向いていた。停車中の車の低いエンジン音だけが聞こえてくる。フロントガラス越しにマンションの窓を見上げてみる。三階の自分の部屋の明かりは消えていた。午前二時。橋爪は眠ってしまったのか。それとも素子の帰りが遅いので、ああは言っているが、隠しようのない嫉妬にかられ、自宅に戻ってしまったのか。 「帰ります」素子はドアレバーに手をかけた。「久しぶりに会えて楽しかった。お仕事、頑張ってね」  素子、と牛島は彼女の背に声をかけた。「きみにふられて以来、僕はどれほどきみのことを……」  最後まで聞かずに素子は車から降り、振り返りもせずにエントランスポーチに向かって駆け出した。  エレベーターを使って三階に行き、自分の部屋のドアの鍵を開けた。玄関ホールには煌々と明かりが灯っていたが、部屋の奥は暗かった。  玄関に橋爪の靴がそろえて置かれてあった。素子はハンドバッグを放り出し、廊下を駆け抜けて寝室に飛び込んだ。カーテン越しに、外の街灯の明かりが室内を薄ぼんやりと照らし出していた。サイドテーブルの上には、橋爪の眼鏡と夕刊が置かれてある。こんもりと盛り上がったベッドの中のかたまりが、もぞもぞと動き出した。 「素子か」シーツのこすれる音と共に、しわがれ声がそう聞いた。「おかえり。つい眠ってしまったようだな。今、何時だ」  素子は答えずに、そっとベッドに近づいた。手早くスーツとストッキングを脱ぎ、アクセサリーをはずし、下着だけになって橋爪の傍らにもぐりこんだ。毛布の中は生温かく、ほんのりと橋爪の匂いがこもっていた。 「楽しんできたかい?」橋爪は仰向けになったまま、片方の腕で素子の頭を受け止め、深呼吸をひとつすると、髪の毛を撫で始めた。 「いやな男に会っちゃったの」素子は彼の胸に顔をおしつけながら言った。日にさらした暖かいおがくずのような匂いがした。「行かなければよかった」 「誰なんだい? それは」 「昔、ちょっと知ってた人。ここまで車で送ってくれたんだけど……」 「送ってもらったのか。そうか。それはよかった」 「いやな男なのよ、ポンコ。ほんとにいやな男。私は全然、好きじゃないの」  橋爪は応えなかった。素子の頭を撫でていた手の動きが止まった。素子が身体をよじらせると、再び手が動き始める。じっとしていると、また止まる。  素子は橋爪のパジャマの前ボタンを指先で玩んだ。寝息が橋爪の口からもれてくる。かすかな口臭がする。その匂いがとてもいとおしい。嗅ぎ慣れた自分の肌の匂いのようだ。  橋爪の心臓の鼓動が聞こえる。とん、とん、ととん、とん……。変な音が混じってる、と素子は思った。疲れている時、いつも橋爪の心臓は変な音をたてる。人間ドックに入って、不整脈を指摘された。睡眠は削らないよう、疲れ過ぎないよう、医者に言われた。  ごめんね、ポンコ、と素子は囁いた。涙がにじんだ。私の帰りを待って、ずっと起きててくれたんだ。だから、疲れてしまって、また心臓が変な音をたててるんだ。  二度とどこにも行かないから。素子は橋爪のパジャマに口をおしつけた。ずっとポンコの傍にいるから。  ととん、とん、とん、とととん……。その晩、素子は夢を見た。朝、起きたら、傍で橋爪が冷たくなっていた夢だった。  牛島は頻繁に素子のところに電話をかけてくるようになった。電話番号は昭代から聞き出したのだという。  さすがに橋爪に気を使っているのか、かけてくるたびに「今、ひとり?」と低い声で聞いてくるのだが、素子が、そうだと答えると、途端にひとりよがりなデートの誘いが始まる。サッカーのチケットが二枚あるんだけど、一緒に行こう、僕の友達が役者をやってて、本多劇場でちょっとした芝居をやるんだけど、見に行かないか、今夜、食事を一緒にどう? 飲みに行かない? ドライブに行かない?……。  あれこれ理由をつけて断り続けたところ、そのうち電話はかかってこなくなったのだが、代わりに花束が届けられたり、下手な文章が恋文もどきに連ねてあるカードが送られて来たり、思わせぶりにコンサートのチケットだけが同封された封筒が、宅配便で届けられたりするようになった。  電話はその場で切ってしまえばいいから気が楽だが、送られてくるものについては配達人といちいち「受け取る、受け取らない」の押し問答もできないから困ってしまう。  橋爪には正直に牛島のことを打ち明けた。昔、ちょっとつきあったことのある男なの、と教えると、橋爪は「ほう」と言って、目を輝かせた。何故、そんなふうに目を輝かせるのか、素子にはわからなかった。婚期を逸した年増の娘に、初めてボーイフレンドができたと告白され、嬉しがる父親みたいだ。 「素子は惚れ直されたのだな、きっと」 「だとしても、私は全然、興味がないの。本当のことを言うと、迷惑なのよ」 「だが、彼のほうは真剣らしい。偶然、再会したからって、ふつうはそんなに一生懸命、誘っては来ないだろう。よっぽど素子に未練があったんだなあ」 「別れて四年もたってるのよ。昭代さんのパーティーでばったり会わなかったら、私はそんな人がいたことも忘れてたわ」 「彼のほうはずっと気持ちのどこかで、素子のことを思っていたんだよ」 「やめてちょうだい、ポンコ。私はあんな人に会いたくもないの。声も聞きたくないの。でも、いくらなんでもはっきりそう言うわけにもいかないし。困ってるのよ」 「でも、昔は好きだったこともあったはずだよ、素子。そんなに邪険にしたら、彼がかわいそうだ」 「好きでつきあっていたわけじゃないわ」 「じゃあ、嫌いなのに、つきあっていたのかい?」 「昔の私は誰とでも寝る女だったもの」素子は吐き捨てるようにそう言うと、煙草に火をつけた。「誘われれば、相手かまわずだった。ポンコもよく知ってるでしょう」  橋爪は悲しそうな顔をして目を瞬かせた。死んだ子猿を見る親猿のような目だった。「素子は自分を悪く言いたがる癖があるね」 「事実なんだもの。娼婦も顔負けだったんだから、仕方がない」 「よしなさい、もう」 「よさないわ」素子は煙草の煙を深く吸い込み、苛々して橋爪を睨みつけた。「ポンコは全然、わかってない。私はポンコと出会ってから別の人間になったのよ。男から誘われたり、男と寝たり、着飾ってどこかに行ったりすることになんにも興味がわかないの。私にはポンコしかいないの。死ぬまでここから出られなくなっても、ポンコがいてくれればそれで充分なの」 「もういい。もういいんだ」橋爪は素子の肩を抱き、あやすように二の腕をさすり続けた。「素子は夢を見ている。できるなら、その夢を覚ましたくはない。でもいつかは覚める時がくるんだ。なあ、素子。そうとわかっていて、おまえの夢を共有できるほど、わたしは若くはないんだよ。わたしはいずれ、可愛い素子を失うだろう。それがわたしの宿命なんだ。受け入れる準備はできている。だからわたしのことだったら、案じることは何もないんだよ」 「どうして、そんなに悲しいことを言うの」素子はこみあげてくる嗚咽《おえつ》の中で言った。「どうして私の言ってることを信じてくれないの」 「信じてるさ」と橋爪は弱々しく言って、素子の髪に顔をうずめた。「信じてるとも」  それから数日後、マンションで一緒に夕食を食べていた時、偶然、つけたTVでアニメの『がんばれドンキー』が目に飛び込んできた。主人公のロバのドンキーが、警官の制服に身を包み、やくざなウサギたちとわたりあっている。  素子は箸を手にしたまま、素っ気なく画面を指さした。「あれよ」 「え? なんだい?」 「ロバよ。あのロバの声は牛島さんなの」  しばらくの間、橋爪は真剣な顔をして画面に見入っていたが、やがて、くすくす笑い始めた。「ずいぶん、声を変えているんだろうね。まさか、素子に電話をかけて、こんな声で喋っているんじゃないんだろう?」  アニメの中のロバはまぬけで、のろまだった。ひとつのセリフを言い終えるのに、途方もなく長い時間がかかる。てきぱきと喋ることができないため、すぐにウサギたちに言い負かされる。馬鹿にされる。笑いものにされる。なのに決して後にひかない。 「しつこいところだけはよく似てるわ」素子は口をへの字に曲げてみせた。TVのロバが「ぼーくーは、えらーいドンキーなんだーぞおおお」と大声をあげた。  橋爪は大笑いし、つられて素子も笑い出した。その笑いは、決して牛島を受け入れる笑いではなく、むしろ牛島を馬鹿にしている笑いに過ぎなかったのだが、橋爪は笑っている素子を見て、嬉しそうにうなずいた。 「楽しそうな男じゃないか。年はいくつ?」  素子はぴたりと笑うのをやめた。沈黙が拡がった。なのに、橋爪はその沈黙の中でなお、微笑み続けている。 「三十二よ。どうして?」  橋爪は何も答えず、笑顔を残したまま、食卓の上の煮魚を箸でつつき始めた。 「ねえ、答えて、ポンコ。どうして彼の年のことなんか聞くの?」 「彼のことを知っておきたいと思うからだよ。素子を愛してくれる男のことは知っておきたい」 「あの人は私のことを愛してなんかいないわ。昔、ふられたものだから、腹いせにしつこくしてるだけなのよ」 「いやいや、それは違うな。彼はわたしから素子を奪い取ろうとしてるんだ。その気持ちはよくわかる。わたしが彼の立場だったら、やっぱり同じことをしていたと思うよ。それは間違った行為なんかじゃない。正しい行為なんだ。男には、そう考えて行動しなければいけなくなる時が必ず来るものだからね」  素子は持っていた箸をぽとりと床に落とした。「じゃあ、私の気持ちはどうなるの? 彼が正しいんだったら、私がポンコのところにいるのは間違ってる、っていうことなの?」 「そうは言っていないよ」橋爪は目を細めて素子を見つめた。「可愛い素子。誰も間違ってなんかいないんだ。間違ったことをしているのは、多分……」  え? と聞き返したのだが、橋爪はその先を何も言わず、腰をかがめて素子が落とした箸を拾い上げると、微笑みながら「洗っておいで」とだけ言った。  素子は自分のいとしい人が、あっさりと両手を拡げて、老いをまるごと受け入れていることをよく知っていた。そうしなければ生きていくことができないほど、橋爪は現実に老いていたのだった。  愛している者に去って行かれることの辛さは、若いころならまだなんとか切り抜けることができる。やり直すこともできる。そればかりか、忘れることもできる。  だが、橋爪の年齢ではそれは無理だった。彼には時間がなさすぎた。時間がないからこそ、自分が傷つくことを何よりも恐れていた。自分が傷つく前に、自分から素子を突き放してやるのが彼の夢だったのだ。  牛島の出現は、橋爪をいっそう、ものわかりのいい年寄りにさせた。また手紙がきたのよ、こんなに大きなバラの花束が届いたのよ、あの男、馬鹿じゃないかしら、気が狂ってるのよ……そんなふうに素子が橋爪に向かって牛島の悪口を並べると、橋爪は決まってこう言った。「彼はほんとに素子のことが好きなんだろう。素子に振り向いてもらいたくて仕方がないんだ。冷たくあしらってばかりいないで、たまには会ってくればいいじゃないか。いい青年らしいし、会えば会ったで、素子の気持ちも変わるかもしれない」  言い返すのも面倒になり、素子は黙りこむ。自分の気持ちが橋爪に通じていないはずはない。自分が何を求め、どうしたいと思っているのか、彼が知らないはずはない。だとしたら、橋爪が牛島のことを善意に解釈し、その情熱、執着心を賛美するようなことを言うのは、橋爪が最後までものわかりのいい年寄りとして、立派に素子を巣立たせようと頑張っているからに違いなかった。  素子は橋爪のそうした気取りが気にいらなかった。橋爪は自分が、自分の女ですら喜んで他人に進呈しかねない、愚かなダンディズムに浸っているように見えた。  いくら手紙を書いても、いくらコンサートのチケットを送りつけても、いっこうに反応がなかったせいか、牛島からその種のものが郵送されてくることはなくなった。再び電話の数が多くなった。二回に一回は理由をつけてすぐに切ってしまうのだが、諦める様子はない。  よく喋る男だった。自分の仕事の話、最近観た映画の話、人から聞いた面白い話、子供時代の思い出話……素子が生返事をし、あげくに疲れ果てて、満足な相槌《あいづち》すら返さなくなっても、平気で喋り続ける。時折、お愛想に素子が笑ってみせると、相手はますます図にのって、なかなか電話を切ろうとしない。 「眠くなったの。ごめんなさい」と言うと、「寝てもいいよ」と言う。「僕はずっとこのまま、受話器を握ってるから」 「くだらないことしないで」と意気ごむと、「いいのさ」と笑う。「せめて電話線で素子とつながっていたいじゃないか」  牛島の何が嫌だといって、その自信過剰なところほど嫌なところはなかった。橋爪など、ただの老いぼれのパトロンに過ぎず、いつでも好きな時に追い払うことができる……そうタカをくくっているのがわかる。自分が目をつけた獲物は、必ずいつか仕留めることができる、と信じているから始末に負えない。素子はそうした牛島の愚直さを憎んだ。  十一月のある日の午後、素子がひとりでベッドに寝ころび、ぼんやりしていると、玄関のチャイムが鳴った。ちょうどクリーニング屋が来る時間帯だったので、確かめもせずにドアを開けた。そこに立っていたのは牛島だった。  困ります、と言うと、頼むよ、と真剣な顔をされた。話があるんだ、と妙に生まじめに食ってかかる。  玄関先でまっすぐ背をのばして立っている牛島を、近所の顔見知りの主婦が横目で見ながら通り過ぎて行った。わざと聞き耳をたてながら、ゆっくり廊下を歩いて行くような気がする。 「突然すぎるわ」素子が小声で言った。「いきなり来られても……」 「こうでもしなけりゃ、会ってもらえなかった。そうだろう?」 「私のほうはお話するようなことは何もないのに」 「僕はあるんだよ。少しだけ時間をくれないか」  数日前から、橋爪は部屋でゆっくりしていかなくなった。素子と一緒にベッドに入り、素子が寝ついたのを見届けると帰ってしまう。妻がまた具合を悪くし、検査のために入院した、と聞かされた。それがきっかけで、家庭内にごたごたが持ち上がり、息子夫婦たちの手前、素子のところに泊まるのをしばらくの間、控えようとしているらしかった。  何の検査なのか、素子は聞かなかった。今度はひょっとすると危ないかもしれないんだ、と橋爪はつぶやいた。  橋爪が背負っているものは重すぎる、と素子は思った。家庭、仕事、自分の年齢、妻の病気、おめかけさん……。疲れなくていいようなことに疲れ果て、それでも最後に自分のところにやって来て、ここは天国だと言いながら添い寝をしてくれる彼のことを思うと、素子は胸が熱くなった。橋爪が哀れだった。  このうえ、牛島のことで橋爪の気持ちを乱したくなかった。ここで追いはらってしまったら、この男はまたいつか、同じことをするだろう。自分以外に夢中になれる女を見つけない限り、飽きもせずに同じことを繰り返し、そのことに恥ずかしげもなく陶酔し続けるのだろう。  素子は牛島のために場所を空け、「どうぞ」と言った。牛島はぎらぎらした目でうなずき、「ありがとう」と怒ったような口調で言いながら、中に入って来た。  居間に通し、ソファーを勧めた。牛島は素子に「これ」と言って、ケーキの箱を手渡した。聞いたことのある高級フランス菓子店のケーキだった。  今、食べる? と聞くと、いや、僕はいい、と言う。素子は箱をキッチンに持って行き、冷蔵庫に収めるふりをして、ゴミ袋の中に箱ごと放りこんだ。  お茶もコーヒーも出す気がなかった。素子は居間に戻り、彼から最も離れた肘掛け椅子の後ろに立った。  自分の部屋に、橋爪以外の男を入れたのは初めてのことだった。空気が汚れるような気がした。素子はベランダに続くガラス戸を開けた。外の喧騒が、遠くで唸る蜂の羽音のように室内に飛び込んで来た。 「いつ橋爪が来るかわからないの。ここは私の部屋だけど、借りてくれてるのは橋爪だし、あなたがここに来ていることを見つけたら、きっと彼はいやな気持ちになると思う」 「わかってるよ。うん、よくわかってる。きみの立場は尊重するつもりだ。手短かに済ますよ」  牛島は軽く咳払いをし、素子が椅子に腰を下ろすのを待ちかねたように喋り始めた。「真剣にきみのことを考えたんだよ。きみと過ごした時間のこととか、きみと交わした会話とか、何故、僕はふられたんだろう、ってこととか、そんなことをね。人は僕のことを馬鹿だと言って笑うかもしれない。きみは僕のことなんか、歯牙にもかけちゃいないよ。今も昔も。そうだろう? 僕はきみに夢中だったし、今も夢中だけど、きみは僕のことをなんとも思っていないんだ。それはよくわかってる。でもね、あのころ、僕は何ひとつ、きみにしてあげられなかった。今と違って、金もなく、仕事もなかった。そんな僕に、きみがついて来るはずがなかった。そう思うと、少しは救われるような気がしたんだ」 「それは少し違うと思うけど」素子は薄く微笑んだ。「私はそんなふうにして、男の人の価値を決めたことはないもの」 「そうかな」と牛島は言い、上目遣いに素子を見て、色つやのいい唇をぺろりと舐《な》めた。「きみは今、橋爪さんに囲われている。橋爪さんには金がある。金のある男に対しては、きみは喜んで貞操を守るんだ。そういうきみのような女を夢中にさせるだけの力が、あいにく昔の僕にはなかったんだよ」  素子はきちんとそろえた膝の上で、両手を重ね合わせた。「何が言いたいのか、よくわからない」 「わからないのかい? 四年前の僕は、ただの小僧だったかもしれない。でも今は違うんだ。橋爪さんと同じくらい、きみにぜいたくをさせてやれる。僕はきみがあんな年寄りに囲われていると思うと、腹が立って仕方がないんだよ。きみはどこかで自分に嘘をついてる。楽な暮らしを続けるために、橋爪さんに操をたてて、自分の正直な気持ちに蓋をしてしまってるんだよ。きみはまだ二十七なんだ。二十七の女が、どうして七十五のじいさんなんかに……」 「橋爪のことを愛してるの」素子は穏やかに遮った。「他の人は目に入らないわ」 「だから、それは嘘だ、って言ってるんだよ。きみは自分にそう言いきかせてるだけなんだよ。目を覚ましてほしいんだよ。僕はなにも、橋爪さんを袖にして僕のところに来てほしいなんて言ってないんだ。今のきみは、自分についた嘘でがんじがらめになっている。そのことにきみ自身が気づいてくれない限り、僕はきみをまともに口説くこともできやしない。それが腹立たしいんだ」 「どうして今更、私を口説こうなんて思うのかしら」素子はそう言いながら、ゆっくりと立ち上がった。「何度でも言ってあげるわ。私は橋爪を愛してるの。誰にもこの生活を邪魔されたくないの。あなたから電話ももらいたくないし、手紙も送られたくない。ううん、相手があなたじゃなくても、同じこと。私は誰とも関わりをもちたくないの。ずっとこうやって、橋爪とふたりきりで生きていたいの」 「目を覚ませよ、素子!」牛島が顔を歪ませた。「七十五のじじいと一緒にいて、何が面白いんだよ!」  怒りが素子を冷静にした。窓から吹きこんでくる風が肺の中を一巡し、血管の隅々にまで行き渡ったような気がした。 「彼を愛してるの」素子は静かに繰り返した。「ポンコは私のものよ」  牛島はソファーから立ち上がり、両手のこぶしを震わせた。「きみは病気なんだ。じいさんに言いくるめられて、孫の役か何か引き受けているうちに、現実と夢の区別がつかなくなってるんだ」  さよなら、と素子は言った。「病気でも何でもいいの。私にはポンコしか見えてないの。誰に何を言われても、私が見ているのは彼ひとりだけなの」 「ああ、わかったよ。わかってやるよ。それだけ言われりゃ、たくさんだ。でもな、素子。どれだけそのじいさんを大切に思ってたって、間違いなくじいさんはきみよりも先に死ぬんだ。ひとりになったら、どうする。また別のじいさんを探すのか。そしてベッドの中で、可愛い孫を演じてやるのか。金をがっぽりもらい、安楽な暮らしをするためなら、孫の役だろうが、赤んぼの役だろうが何でもやるって言うのか」 「玄関はあっちよ」素子は微笑みを浮かべたまま、廊下の先を指さした。  牛島は歯ぎしりをし、喉の奥で唸り声のようなものを発した。ひっぱたかれるか、と思ったが、何事も起こらなかった。彼はカーペットを蹴散らすようにして玄関に突進して行った。  いいか、と彼は玄関で靴をはきながら、振り返って素子に人さし指を突き出した。「きみの病気を治してやれるのは僕しかいない。じいさんはきみをおもちゃにしてるだけだろうが、僕は違う。それだけは忘れるな」  乱暴にドアが閉じられ、足音が遠のいた。素子はキッチンに行き、流しの下の扉を開けた。よくは知らないが、高名な刀鍛冶が作ったという包丁セットが三本、扉の内側にぶら下がっている。橋爪がどこかでもらって来たものだ。  三本の中から、一番長い刺身包丁を取り上げて、柄を強く握った。殺してやりたい、と素子は思った。微笑みを浮かべたまま、そう思っている自分が少し怖かった。  橋爪の妻は、検査の結果、肝臓に癌が見つかり、そのまま入院することになった。これまで様々な病気を抱えて生きてきた人で、入院など、ちょっとした長期外泊に過ぎなかったはずなのに、癌と察して、ノイローゼになったらしい。重い鬱状態が続き、深夜早朝を問わず、突然、病室で泣き叫んでは主人を今すぐここに呼んでほしい、と暴れまくる。そのたびに手を焼かされる看護婦から、いちいち自宅に電話がかかってくるものだから、橋爪は気を休める暇もなくなったようだった。  心身共に疲れがたまっているのか、素子のところに来ると、何も食べずに風呂に入ってベッドにもぐりこんでしまう。そのくせ、寝つきは悪かった。温かい牛乳やハーブティーを飲ませ、腕や背中をさすってやるのだが、気持ちが張りつめ過ぎているせいだろう、身体はぐったりしているのに、なかなか睡魔が訪れず、寝苦しそうにしている。  橋爪がやっと眠りについた深夜、電話のベルが鳴り、素子が出てみると、橋爪の息子と称する男が、つっけんどんな口調で「父がそちらに行ってるはずですが」と言ってくる。素子は平然と、「今日はこちらには来ていません」と答える。相手は、そんなはずはない、おふくろがまた病院で騒いでいるらしく、どうしても親父になんとかしてもらいたいのだ、と突っかかってくるが、素子は同じ言葉を繰り返し、受話器をおろす。  寝室に戻り、橋爪に「電話だったのか?」と聞かれても、間違い電話だった、と嘘をついた。そうか、と橋爪は安心したようにまた眠りに落ちていく。  橋爪をゆっくり休ませてやることだけが、素子の日課になった。夜明けと共に橋爪が起きてしまわないよう、寝室のカーテンをぶ厚い遮光カーテンに替えた。自分の寝返りで彼の目が覚めてしまうのではないか、と思い、一晩中、橋爪の横で棒のようにじっと横たわっていることもあった。  ある晩、病院の帰りだ、と言って憔悴した顔でマンションにやって来た橋爪は、妻の手術が検査の関係上、来週に延期になった、と告げた。 「こんなことを言うのは不謹慎かもしれないが」と彼は素子に着替えを手伝わせながら疲れきった声で言った。「早く手術の日がくればいい、と思ってるんだよ。家内に麻酔をかけてもらいたくてね。病気に関係のないことでまわりの人間にあたるものだから、みんな疲れきっている」 「病気に関係のないこと、って?」 「昔の記憶をひっぱり出してきて、あの時、あなたはこう言った、ああ言った、って、わたしや嫁たちを責める。わたしはいいが、嫁たちが気の毒だ」 「私のことも何か言ってる?」 「……少しね」 「なんて?」 「素子はそんなことは知らなくてもいい」 「知りたいわ」 「ただのやきもちだ」 「何に対する?」  え? と橋爪は聞き返した。  素子は微笑んだ。「私の何にやきもちを焼いているの? 私がポンコに可愛がられていることに? それとも私が健康であることに? 私の若さに対して?」 「その全部にだよ」そう言って、橋爪はふいに泣きそうな顔をし、そっと素子を抱き寄せた。「わたしは時々、素子がかわいそうになることがある。こんなことをさせていて、いいのだろうか、と真剣に考える。ここはまるで牢獄だ。素子はここでじっとわたしが来るのを待っている。誰にも会わず、どこにも出かけず。あげくの果てに、やって来るのは、つまらない問題を抱えこんでくたびれ果て、横になってばかりいる老人だ。その老人には自慢できるものが何ひとつない。それなのに、素子はここでじっとわたしを待ってくれている。恋人も作らず、ただじっと……。わたしは、素子をそうさせている自分が情けない。恥ずかしくてたまらない」  素子の背を抱く手に力がこもり、かすかに洟《はな》をすすりあげる音がした。ポンコ? と素子は囁きかけた。「泣いてるの? ポンコ」  橋爪は素子から身体を離すと、目をそらし、もう一度、洟をすすった。素子は言葉を失った。  なんでもないよ、と彼は言った。痛々しいほど力のない微笑みが、乾いた唇のまわりに蜘蛛の巣のように浮かんだ。「ちょっと疲れただけだ」 「ぐっすり眠って」素子は言った。「眠らなくちゃだめ。明日も明後日《あさつて》もずっとここで眠ってて」  橋爪は細めた目をうるませた。「そうしよう」  素子は橋爪を寝室に連れて行き、ベッドに入れてから、温めたコンソメスープを運んでやった。はい、ああん、して、と言うと、橋爪は「ああん」と言いながら、素直に口を開ける。おいしい? と聞くと、ああ、おいしいよ、と答える。私のこと好き? と聞くと、ああ、大好きだよ、と言う。  スープを飲み終え、いくらかくつろいだ様子の橋爪は、替えたばかりの乾いたシーツの上に横になった。首まで毛布をかけてやり、眠りにつくまで私にどうしてほしい? と聞いてみた。ここにいてほしい、と彼は言った。素子は即座に着ていたものを脱ぎ、素っ裸になって、橋爪の横にもぐりこんだ。  やわらかいね、と橋爪は言い、素子の乳房を静かに撫でた。ふたりはしばらくの間、黙っていた。乳房に触れる橋爪の手が動くたびに、シーツがかさかさと音をたて、その音は心にしみるように優しかった。 「ポンコ」 「ん?」 「もしも私が先に死んだら、どうする?」 「そんなことはあり得ないよ」 「わからないわ。突然、私が死んでしまったら、ポンコ、また別の女の人を探す? 私みたいに可愛がれる人を探しに行く?」 「そうしてほしいのかい?」 「絶対、してほしくない」 「だったらしないよ」 「約束して」 「約束するよ」  ああ、ポンコ……素子は橋爪に抱きついていった。「私もう、なんにもいらない」  橋爪は黙ったまま、かさかさした唇で素子の乳房に接吻した。  その晩遅く、また電話のベルが鳴り出した。橋爪はぐっすり眠っていた。素子は慌てて起き出して、裸のまま居間に走った。  何故とはなしに、ベルの音が不吉なものに感じられた。橋爪の妻に異変が起こったのかもしれなかった。だが、そうだとしても、いいではないか、と素子は思った。橋爪の妻が死にかけていても、あるいは本当に死んでしまったのだとしても、橋爪の休息を邪魔するものは何ひとつ許すつもりはなかった。たとえ、今この場に銃をもった強盗が押し込んで来たとしても、いかなる天変地異が起こっても、自分は橋爪をここでぐっすりと休ませること以外、考えないだろう。 「寝てたの?」受話器の奥から聞こえてきたのは、牛島の声だった。素子は受話器をきつく握りしめた。 「ごめんよ。どうしてもきみの声が聞きたくなって」  酒に酔っているようだった。『がんばれドンキー』のロバのような鈍重な喋り方。おまけに呂律《ろれつ》がまわっていない。飲みながら電話しているのか、グラスに氷があたる音がかすかに聞こえる。 「僕のことを怒っているだろうね。きみのことが気になって気になって、仕事どころじゃなかったよ。何度、手紙を書いたかわからない。でも、読んでくれなかったら同じことだと思って、破ってしまった。しばらく電話もするつもりはなかったんだよ。でもだめだ。ひとりでこうやって酒なんか飲んでると、つい理性がなくなっちゃって。素子、僕はもうきみにめろめろだよ。何もかも、どうでもいい。きみのことしか考えられない。またふられることになる、ってわかってるくせに、どうしてもきみを忘れられないんだよ。教えてくれよ。きみは魔女か? 四年前、僕に魔法をかけたんだろう。僕をふるなら、魔法をといてからにしてくれればよかったんだ」  素子は受話器を握りしめたまま、大きく目を見開いた。室内はどこもかしこも、暗い巨大な水槽の中のように揺らいで見えた。瞬きひとつせずに、素子はゆっくりとキッチンのほうに向き直った。流し台の上の小窓から、外の街灯の明かりがうっすらともれている。 「素子。返事くらいしてくれよ。どうせ、じいさんが一緒なんだろうけど、かまやしないじゃないか。じいさん、そこにいるのか? それともベッドで高いびきか?」 「いないわ」素子はキッチンを見つめたまま、掠《かす》れた声で言った。 「そうか。珍しいんだな。ごめんよ。じいさん、だなんて言って。でもじいさんはじいさんだ。怒るなよ」  牛島の声が、水底で聞く声のように、間のびして響いてくる。自分が部屋ごと、静かに波立つ小暗い海に沈んでしまったように感じられる。素子の目が、流し台の下の扉に吸い寄せられた。現実に目にしているわけではないのに、扉を透かして、中のものが見えてくる。そこにぶら下がっている大きな刺身包丁が、意味ありげにぎらりと光った感じがする。 「もしもし? 素子。聞いてる?」  聞いてるわ、と素子は言った。「ねえ、あなたは今、どこにいるの?」 「どこ、って……自分のうちだけど。どうして?」 「まだ前と同じマンションに住んでるの?」 「そう言ったじゃないか。おんなじだよ。何も変わっていない」 「これから行ってかまわない?」 「え? これから、って……」牛島は声を詰まらせた。「ここに? 素子、それ本気かよ」  素子は音をたてずに唾を飲みこむと、「本気よ」と言った。「待っててくれる? 支度をしたらすぐに行くから」 「あ、あの……ああ、夢じゃないんだろうな。酒に酔って、知らない女に電話してるんじゃないだろうな。信じられないよ。待ってるよ、素子。来てほしい。きみに会えればそれで……」  ロバの声が遠のいた。素子はそっと受話器をおろした。  寝室に戻り、服を着始めても、橋爪が目を覚ます気配はなかった。大きないびきをかいている。  外は冷えているかもしれない。素子はニットの黒いワンピースの上に、トレンチコートをはおった。  眠っている橋爪の額に、そっと唇をつけ、彼の口からもれてくる懐かしいような匂いを嗅いだ。おやすみ、ポンコ。ぐっすり寝てね。  寝室のドアを閉め、キッチンに行って厚手のタオルに刺身包丁を包んだ。何も怖くはなかった。  素子は煙草を吸い終えると、猪首の刑事が手渡してくれたアルミの灰皿で、丁寧にもみ消した。 「どうだい、お嬢さん。吐き出す気分になったか」猪首は椅子をきしませて、素子のほうに身を乗り出した。  素子は灰皿をじっと見つめながら、こくりと静かにうなずいた。あまり静かにうなずいたので、首の骨が軋む音が聞こえたような気がした。  ようし、とあばた面のほうが言った。「そうこなくちゃ」 「あんたがやったんだね?」猪首が重々しく聞いた。  またこくりとうなずいてみせる。 「あの晩、タクシーを使って牛島さんのマンションに行き、持って行った包丁で牛島さんを刺し殺したんだね?」 「はい」 「返り血を浴びたまま、どうやって自分の家に戻ったんだ」 「コートを持ってましたから」 「途中、牛島さんのマンションを出るところを早起きの管理人に見られた。おまけにタクシーの中に血痕を残してきた。計画的な犯行にしちゃ、やることがずさん過ぎたね」 「計画してたわけじゃありません」 「ほう。思いたってやったわけか」 「そうです」  猪首とあばた面は、ちらりと目を見交わした。猪首が続けた。「で、朝方、戻ってみたら、橋爪さんが死んでた、と。そういうことか」 「はい」 「何故、すぐに医者を呼ばなかった」 「わかりません」 「恋人を刺殺して戻ってみると、金ヅルのパトロンが急性心不全を起こして冷たくなってた……。まあ、橋爪さんの死に関しては、病死であることがはっきりしたからな。あんたが恋人とパトロンの両方を殺した疑いは晴れてるよ。で、凶器の包丁はどこに始末した」  あの、と素子は言い、つと顔を上げた。「何故、牛島さんを殺したか、今ここで喋ってもかまわないですか」  猪首は持っていたボールペンで、だるそうにぼりぼりと首の後ろを掻いた。「なんでも聞くよ。ただし、後で正式に調書をとるから、その時もう一度、同じことを喋ってもらわんと困るけどな」 「私は」素子は背筋を伸ばし、猪首とあばた面の両方を交互に見ながら言った。「四年ぶりに会った牛島さんに夢中でした。それなのに、彼は、私が囲われていて、身動きできない立場にあることを知ると、途端に冷たくなりました。多分、私が彼を思っているほど、彼は私のことを思っていてはくれなかったんでしょう。おめかけの女は性に合わない、って言われて。私は橋爪さんときれいに別れるつもりだったんです。私と橋爪さんは、お金でつながっている関係に過ぎませんでした。橋爪さんも、私に男ができたら、その時点で関係は解消しよう、と言っていましたし、私と橋爪さんのほうには、何の問題もなかったんです。それなのに……」 「それなのに、牛島某はあんたから離れていこうとした。だから、殺した」  はい、と素子は持っていたハンカチで鼻をおさえた。  ふふっ、とあばた面が小馬鹿にしたように笑った。「簡単だな」 「子供みたいだよ、あんた」猪首は口を大きくねじ曲げた。「まだ若いのに、そんな馬鹿なことをして。あんたほどの器量なら、男は星の数ほどできただろうに」  かまわずに素子は続けた。「橋爪さんはさっぱりした人柄の方でした。全部、お金で割り切って、面倒ないざこざを一切、起こさない人でした。もう、相当のお年でしたが、後腐れなく女の人と遊べる素敵な紳士だったんです」 「そういうのって、紳士というのかね」あばた面がまた笑った。「まあ、いいけど」  猪首がうなずいた。「羨ましい限りだな。七十五にして、女を囲って、女の部屋で大往生。自分の女が人を殺したことも知らずにぽっくりいけて、まったく幸せなじいさんだ。お嬢さんよ、思い出話はそのへんでやめとくんだな。これから、いやというほど喋らせてやるから」  あばた面が部屋を出て行き、猪首は内線電話でどこかに電話をかけ始めた。あたりに慌ただしい空気が流れ始めた。  ポンコ、と素子は胸の中で語りかけた。どう? これでいいでしょう? 満足してくれるでしょう?  二人の静かな生活を守るために牛島を殺した、と言うのはどうしてもいやだった。橋爪は素子が牛島のほうに逃げて行くことを望んでいた。素子が橋爪だけにしがみつくことを何よりも恐れていた。自分がただのパトロンに過ぎず、金の力で女を囲っているだけの年寄りである、という立場を貫きたいと願っていた。  それは愚かな気取りに見えて、実は、彼が命をかけて守り抜こうとしていた彼ならではの誇り、彼らしいロマンティシズムであったに違いない。素子との関係に溺れ、ふたりきりの静謐な世界を守ろうとした途端、自分が嫉妬に狂う醜い七十五歳の老人になり下がってしまうことを、あらかじめ橋爪は知っていたのだ。  だからね、ポンコ。素子は、唇を固く結んだまま、天井を仰いだ。私、一生、嘘をつき通してあげる。約束する。  窓の向こうの、ひんやりと暮れなずむ都会の空が視野を横切った。もうじき冬だ、と素子は思った。 [#改ページ]    彼なりの美学  渋谷の映画館を出てすぐ、葉子は男に声をかけられた。見知らぬ中年の男だった。  深夜、若い娘に声をかけてくる男にろくな男がいないことは経験上、知っていた。まして、その男は醜男だった。仕立てのいいジャケットに、折り目がきちんとついた真新しいズボンをはき、きちんと髪の毛を撫でつけてはいたが、その身なりのよさが、かえって容貌の醜さを強調しているようにも見えた。 「お一人ですか」  聞こえなかったふりをして歩き去ろうとした葉子の後を追いながら、男は続けた。「きれいな方だと思って、映画館の中でずっと見ていたんです。私はあなたが座ってらした席の斜め後ろにいました。あなたのおかげで、映画の内容はほとんどわからなかった。スクリーンではなく、あなたを見てましたから。あの……なんだか蒸し暑い夜ですし……よかったら、何か冷たいものでも飲みに行きませんか」  急ぐので、と葉子は伏目がちに小声で言った。男の言う通り、蒸し暑い夜だった。冷房で冷やされた身体に、外の熱気がまとわりつき、たちまちそれは汗に変わった。  若者たちが、映画館前にたむろしていた。オールナイトで上映する映画館だった。時刻は午前零時をまわっていた。  かなり泥酔した背広姿の男が、千鳥足で歩いてきて、葉子にぶつかりそうになった。すえたような酒の臭いがした。葉子は顔をしかめた。酔漢から葉子をかばうようにして、男が間に立ちはだかった。酔漢は、ちっ、と舌を鳴らしながら後ずさりした。  どうも、と葉子は口の中で曖昧に礼を言った。言いながら、素早く男を観察した。  背は葉子よりも少し高い程度だった。肌はわら半紙を思わせるようながさついた色をしており、鉤型で、おまけにあぐらをかいた大きな鼻が顔の中央で目立っているわりには、目も口も赤ん坊のように小さい。眉は薄く、あるのかないのか、わからないほどで、小さな目をせいいっぱい見開いて喋ろうとするせいか、額に深い横皺が数本、くっきりと刻まれるのが滑稽だった。  酔漢がよろよろと立ち去って行くのを見届けると、おもむろに男は言った。「私は怪しい者ではありません。あなたの美しさに惹かれただけです。正直なところ、みとれてしまった。本当です」  軽薄な喋り方ではなかった。男の口調は穏やかで、状況にそぐわないと思われるほど上品だった。 「あなたは映画館で、泣いてらっしゃいましたね」男はわずかに眉をひそめ、言いにくそうにつけ加えた。  葉子は目を見開き、男を見上げた。大きなお世話よ、と言おうとしたが、言えなかった。まがりなりにも、自分のことを美しいと言ってくれる男に対し、声を荒らげるのは大人げないような気がしたからだった。 「急いでるんです」葉子は言った。「ごめんなさい。だから、これで」  嘘だった。急いでどこかに行こうとしているのではなかった。それどころか、行きたい場所、帰りたい場所というのもなかった。かといって、一人でどこかのバーに入り、しこたま酒を飲みたいという気分でもなかった。何もしたくなかった。心の中がからっぽになっているのではない、中だけではなく、外側まですべて、自分はからっぽそのものなんだ、と葉子は思った。  その晩は、達郎と会う約束をしていた。久しぶりの逢瀬だった。青山に新しくできたフランス料理店で食事しよう、と彼が言うものだから、精一杯、めかしこんでもきた。  だが、待ち合わせたレストランに、達郎の名で予約は入っていなかった。不審に思いつつも、案内されるままに空いていたテーブルについた。  三十分待っても、一時間待っても、達郎は現れなかった。何度か、達郎のマンションに電話をかけに行くために席を立った。そのたびに、ウェイターが恭しく会釈してくるので、葉子も会釈を返さねばならなかった。  達郎は留守で、留守番電話が応答してきた。部屋にいる達郎が、かかってきた電話に誰がどんなメッセージを録音するのか、電話機をじっと見つめて、くすくす笑っている姿が頭に浮かんだ。想像の中の彼の傍には、見知らぬ若い女が寄り添っていた。鼻の奥に、最近、達郎の部屋で嗅いだことのある、嗅ぎなれない香水の香りが甦った。  初めのうち、足しげくミネラルウォーターのサービスをしてくれていたウェイターたちも、やがて気の毒だと思ったのか、見て見ぬふりをするようになった。何も注文しないで帰るのは申し訳ない、と思い、葉子はメニューを見せてもらった。そこに恭しく書かれていたのは、六千円、八千円、一万円の三種類のコースメニューだけだった。給料日の直前でもあり、この日のために夏のワンピースを買ってしまったので、葉子の財布の中には六千円しか入っていなかった。  仕方なく店の人間に事情を話し、コーヒーを注文した。お飲み物だけではちょっと……と言われ、苦い顔をされた。無銭飲食をとがめられているような気分になった。葉子はショルダーバッグを抱え、席を立った。  クロークカウンターの中にいた従業員に近づき、「もし、松永葉子あてに男性から電話がかかってきたら、もう帰った、と伝えてください」と頼んだ。店の支配人らしきその男は、哀れむような目を投げると、「承知いたしました」と言った。  店を出てから電車を乗り継ぎ、達郎の住むマンションまで行った。居留守を使われることを承知でチャイムを鳴らすと、驚いたことに達郎本人が出て来た。上半身、裸だった。  出前を頼んでいたらしい。財布を手にそそくさとドアを開けた達郎は、葉子を見るなり、「あ」と言った。顔色が変わった。  その日の葉子との約束を忘れていた、と彼は言った。言いながら、笑ってみせたり、頭をかいてみせたり、かと思うと険しい顔をして葉子を睨みつけたりした。その異様な動揺ぶりは、見ていて気の毒ですらあった。  奥のバスルームからは、絶え間なくシャワーの音がしていた。玄関には一目で安物とわかる、白いハイヒールの靴が「ハ」の字を描いて脱ぎ捨てられていた。  達郎は葉子を玄関の外に押し出すようにしながら、小声でしどろもどろの言い訳を繰り返した。葉子は聞いていなかった。  踵《きびす》を返し、エレベーター脇の非常階段を駆け降りた。背後で達郎が「待てよ」と言った。泣きそうな声だった。追いかけて来るかどうか、試してみたかった。階段の途中で息をつめて立ちつくした。達郎の部屋のあたりで扉が閉まる音が響いた。内側から鍵を締める音も確認できた。  駅まで戻る途中、煙草の自動販売機を見つけたので、マイルドセブンを一箱買った。近くの公園のベンチに座り、たて続けに二本吸った。煙草を吸ったのは久しぶりだった。頭の中に白い膜がかかったような感じがした。  再び電車に乗り、気がつくと渋谷の映画館の、あまり上等とは言えないシートに座っていた。葉子も知っている有名なアメリカ人の男優が、海軍の軍服を身につけてスクリーンに登場したが、何という映画なのか、どういう内容の話なのか、わからなかった。  館内は空いていた。達郎の裏切りよりも何よりも、自分自身が抱え込んだみじめさのほうが辛かった。  眼前に繰り広げられている映画の中の物語とは何の脈絡もなく、葉子の目から涙があふれ、頬を流れ落ちた。誰にも見られていない、という安心感からか、思う存分泣けることだけがありがたかった。 「泣き顔も美しかったです」男はうっとりとした調子で、葉子に向かって話し続けた。 「本当です。私のいた席からは、あなたの目からあふれる涙が見えました。きれいでした。小さな水晶の玉みたいでした」  つきあいきれない、と葉子は思った。笑い出しそうになった。男にそっけない会釈を返すと、葉子は早足で歩き出した。  男は歩調を合わせてついて来た。葉子が歩調をゆるめると、男も同じようにした。試しに小走りに走ってみた。男はすぐに駆け出して、瞬く間に葉子に追いついた。  ばかばかしくなった。可笑しくもあった。葉子は足をとめ、男を振り返って呆れたように空を仰いでみせた。  男は醜い顔に似つかわしくない、妙に品のある笑みを浮かべながら、まっすぐに葉子を見つめた。原色のネオンに彩られた騒々しい深夜の歩道で、何故かそこだけが静かに見えた。  ふいに葉子は、今夜の自分にもっともふさわしいのは、この醜い男ではないか、と思った。男は醜いうえに、自分よりもはるかに年をとっていた。ひょっとすると、自分の父親ほどの年齢なのかもしれなかった。こんな男と土曜日の深夜、渋谷の町を親しげにうろついているのを友達に見られたらどうなるだろう、と想像した。自虐的な気分が葉子を襲った。 「嘘です」と葉子は言った。「さっき、急いでる、って言ったのは嘘。本当はね、ちっとも急いでなんかいないの」 「そうだったんですか」と男は言った。「よかった。じゃあ、おつきあいいただけますね」 「喉がかわいちゃった」葉子は言った。甘えたような口調になっているのが、自分でも可笑しかった。「冷たいもの、ごちそうしてください」  ネオンのせいで白茶けて見える顔に、男は満面の笑みを浮かべてうなずいた。その小さな目が葉子をまっすぐに見つめ、わななくように小さな瞬きを繰り返した。 「美しい」と彼はつぶやいた。目には感嘆の光、称賛の光が宿っていた。そこには、性的な匂いは一切、感じられなかった。男はまるで、美術館で美しい絵を鑑賞している時のように、右から左へ、斜め上から斜め下へ、とつぶさに葉子を眺めまわした。聞き取れないほどひそかな、感動のため息がそれに続いた。葉子は奇妙な満足感を味わった。  このあたりには不案内なものですから、と男は言った。葉子は、朝まで開いているカフェバーを一軒、知っていた。勤めている会社の同僚に連れて行ってもらったことのある店だった。  店は公園通りの裏手にあった。店内にはポップス調の賑やかな音楽が流れ、若者たちでごった返していた。  カウンター席に並んで座り、葉子はビール、男はグレープフルーツジュースを注文した。男は、酒も煙草もやりませんので、とはにかんだように言った。そのせいか、男の歯はきれいだった。  葉子はビールの次にソルティドッグを飲み、さらに強いアルコールが欲しくなって、マティーニを頼んだ。会話ははずまなかった。自己紹介をし合うような雰囲気にもならなかった。男はただ、上気した目で葉子を見ているだけだった。  マティーニをグラス半分飲んだところで、天井が回り始めた。夕食抜きだったことを思い出した。葉子は男に向かって「お腹がすいてるんです」と言った。  腹の足しになるようなつまみはミックスピザしかなかった。男はすぐに、カウンターのバーテンを呼びつけ、Lサイズのピザを注文してくれた。  ピザができあがってくるころには、天井どころか、床も揺れ始めていた。めしあがってください、とピザを勧める男の声が、遠くに聞こえた。記憶はそこで途切れた。  気がつくと、葉子はタクシーの中にいた。タクシーは、青白い街灯がともされた商店街の一角に停まっていた。葉子の横では、男が運転手に料金を支払っているところだった。 「大丈夫ですか」男は葉子に声をかけた。  うなずいただけで、頭がぐらぐらし、気分が悪くなった。男に腕を抱えられながら、葉子は車から降りた。  狭い車道に沿って、狭い歩道が延びていた。薬屋、米屋、酒屋、八百屋……様々な小売店の看板が見えた。何本か立ち並んでいる街灯には、一目で模造品とわかる笹の葉が揺れ、「七夕謝恩セール」と印刷された桃色のリボンが垂れ下がっていた。  タクシーが走り去ってしまうと、あたりは静寂に包まれた。どこか遠くで犬が吠えた。 「私の家です。私は独り暮らしをしているんですが、ご安心ください。変な意味があってお連れしたのではありませんから。私はそういう人間ではないんです。店舗はごらんの通り、小さいですけどね、住居部分は広くなっていて部屋はたくさんあります。泊まって行ってください。ご遠慮なく」  男はそう言うと、そっと葉子から手を放し、ジャケットの内ポケットを探ってキイホルダーを取り出した。「ここは店の入口なので、今は入れません。内側から戸締りをしてしまってますからね。玄関は裏です。この細い道を入って行かなくてはならないのですが……さあ、どうぞ。足元に気をつけて。暗いですから」  店と言われて、初めて葉子は目の前のうらぶれた木造の建物が、小ぶりの店舗になっていることに気づいた。戸締りされた引き戸の上には、小さいがいかめしい、木彫りの看板がかかっていた。  そこには「長沼小鳥店」とあった。  翌朝、目覚めた葉子は、自分が小ぢんまりとした和室に寝ていたことを知った。部屋は薄暗いが、閉めきった障子の向こう側には、さんさんと光があふれていた。  床の間の白い大きな壺には、葉子の知らない紫色の花が一輪、ひっそりと活けられていた。壺の下には藍染めの小布が敷かれてあった。部屋は清潔で塵ひとつなく、黒くなった古い床柱も、日頃の手入れがいいのか、見事に磨き上げられていた。  どこかで静かなクラシック音楽が流れていた。かすかに小鳥が鳴く声も聞こえた。冷房はついていなかったが、部屋の片隅に通風口が設けてあり、そこから入ってくる風がひんやりと涼しかった。  枕元に置いた自分の腕時計を手にとってみた。九時四十分だった。  男からパジャマ代わりに借りたTシャツを脱ぎ捨て、布団の下に丸めて突っ込んでおいた下着を身につけた。着ていたワンピースが、きちんとハンガーにかけられ、葉子が寝ていた和室の鴨居にぶら下がっているのが見えた。服を脱いだことまでは覚えているが、自分でハンガーにかけた記憶はなかった。  だとすると、自分が裸になり、Tシャツに着替えて布団にもぐりこんだ時も、あの男がこの部屋にいたことになる。あるいは、自分が寝入った後、男がこの部屋に入って来て、服が皺にならないように、とハンガーにかけてくれたのかもしれなかった。  不思議なことに、そんな想像をめぐらせても、葉子は嫌悪感を覚えなかった。男はワンピースを丁寧にハンガーにかけ、皺を伸ばし、糸くずを取り去って、静かに部屋を出て行ったのだ。たとえ夏掛け布団からはみ出した葉子の太ももを見たとしても、彼はいかがわしいまなざしを投げなかったに違いない。そんな気がした。  寝る前まで、烈しい頭痛に悩まされていたのだが、男から頭痛薬をもらって飲んだせいか、気分はよくなっていた。葉子はシーツをはがして布団をたたみ、床の間の脇に積み上げた。麻のシーツは丁寧に洗濯され、糊づけされてあった。布団もよく干してあるらしく、日なたの匂いがした。  縁側に人の気配がした。影が障子に映し出された。男の声がした。「お目覚めですか」  葉子が障子を開けると、夏の光があふれた縁側で、男がにっこりと微笑みかけた。マオカラーになっている白の半袖シャツを着た男は、風呂あがりのような小ざっぱりとした顔をし、手に陶器の小鉢を持っていた。  小鳥の雛用にすり餌を作っていたところです、と男はにこやかに言った。「私は冷房が苦手で、うちには冷房はつけないことにしているのですが……暑くて寝苦しかったんじゃないでしょうか」  葉子は首を横に振った。「ぐっすり寝てしまったので気づきませんでした」  流れてくるクラシック音楽は甘やかで、耳に心地よかった。開け放された縁側のガラス戸の向こうに、小さいが手入れのいい庭が見えた。水をまいたばかりなのか、きれいに刈られた植木のあちこちで陽炎がゆらめいている。L字型を作っている縁側のガラスに、生い茂った木々の木もれ日が落ちて涼しげである。  葉子は縁先に腰をおろし、足をぶらぶらさせた。男は葉子と離れたところに座ってあぐらをかき、股の間に小鉢をはさんで餌をすり続けた。  外から覗かれにくい構造になっている庭だった。そのせいか、庭はどこか秘密めいていて、すみずみまで完璧に人間の手が加えられた箱庭を連想させた。 「すみませんでした。酔っぱらったあげくに図々しく泊めてもらったりして」葉子は前を向いたまま言った。 「とんでもない。泊まってくださって嬉しいです。あなたのおかげで、この汚い家が今朝はこんなに輝いて見えますからね」  男は再び、あの覚えのある、感動にふるえるようなまなざしを葉子に投げた。葉子はうつむき、片手で頬をおさえた。 「あんまり見ないでください。シャワーも浴びてないし、顔も洗ってないし、髪もとかしてないし……第一、ゆうべは飲み過ぎたし。私、きっとひどい顔をしてるんだわ」 「たとえそうであったとしても、何ひとつ、問題がないほどきれいですよ。保証します」男は小さな目を細めた。「とはいえ、この暑さです。さぞかし汗をおかきになったでしょう。風呂をわかしておきました。よかったらお入りください」  葉子はほつれた前髪をかきあげた。「まだ自己紹介もしてないのに……」 「名前がわからないと、風呂に入れませんか」男は小さな口をすぼめて微笑んだ。「冗談ですよ。別に隠しているわけではありません。現にこうやって、自分の家にあなたをお泊めしたんですからね。私は長沼といいます。鉄のオトコと書いて、鉄男という名です。ごらんの通り、鳥屋ですよ。祖父の代からの商売ですが、規模を大きくするのを親父がいやがって、結局、昔のまま、細々と続けてます。祖父も親父もおふくろも、とっくの昔に死にましたけどね。小鳥は好きですか」  ええ、と葉子は言った。「昔、番《つが》いでカナリアを飼ってたことがあります。雌のほうは長生きでした。十二年も生きたんです」  ほう、と鉄男という男は感心したようにうなずいた。少し、間があいた。  葉子は「松永といいます」と言い、軽く頭を下げた。「名前は葉子。葉っぱの葉の葉子です」 「エメラルド色の葉ですね」 「は?」 「私は木の葉を思い浮かべる時、必ずエメラルド色をイメージするんです。緑や黄緑ではない。もっと深い神秘的なエメラルド色。日本画の中には、時々、そんな色を見つけることができますよ。沼のように深い緑色かと思えば、黄味がかった輝きがあって……木の葉というのは、実はそういう色をしているんですね。変幻自在なんです。光の加減でいろいろな色に見える。そして、そのどれもが美しい」彼はそこまで言うと、葉子を見つめ、のみこんだ息を一気に吐き出すかのような勢いでつけ加えた。「あなたみたいに」  鉄男の顔が、見慣れたせいか、昨夜よりも醜く思えなくなっていることに葉子は気づいた。彼の吐くセリフの一つ一つも、昨夜ほど滑稽には感じられなくなっていた。それどころか、鉄男の声、鉄男の口から出てくる言葉の流れが、すでに自分の耳になじんでしまっているような気もした。 「女性に年齢を聞くのは失礼だということはわかっていますが」鉄男は言った。「……おいくつですか」 「あんまり正直に言いたくないけど」葉子は短く笑ってみせた。「二十六になったところです」 「極上の年齢ですね」 「どういう意味ですか」 「女性がもっとも美しい年齢だという意味です」 「そんなことありません。四捨五入すると三十ですもの」 「そんな計算はつまらない遊びに過ぎませんよ」鉄男はたしなめるように言った。「美しい女性は、その美しさに浸って生きていればいいのです。先のことは考える必要はありません。美は本来、いずれは逃げていく運命にありますが、自分の中にとどまってくれている間は、遠慮せずに味わいつくしてやればいいんです。本当に、骨の髄までしゃぶりつくしてやればいい。最後の一滴まで残さずにね」  言っている意味がよくわからなかった。葉子は、はいていたストッキングに小さな綻《ほころ》びができているのを見つけ、それに気をとられているふりをした。  鉄男は口調を変え、笑いをにじませながら言った。「私は四十三歳です。あなた流に言えば、四捨五入すると四十ですけどね。どういうわけか老けて見られて困ります。五十歳ですか、と聞かれて、さすがにがっかりしたこともありますよ」 「奥さんはいないんですか」葉子は聞いた。 「五年前に死なれてしまいました。病気でね。まだ二十七だったんですが」  この男に妻がいた、という事実を知り、葉子は少し安心した。この人の妻になった女性がいたくらいなのだから、自分のようにこうやって、名前も知らないうちに家に泊まり、翌朝、縁先に腰かけて庭など眺めながら、親しげに会話を交わす女がいても不思議ではないだろう、と思った。 「あなたは? 結婚なさってるんですか」 「まさか。巣鴨にある小さな建設会社に勤めてます。お給料も安くって、上司も最悪で、いつやめようか、と思ってるんですけど」 「やめて私のところにいらっしゃればいい」冗談とも本気ともつかぬ表情の中で、鉄男は笑顔を作った。「あなた一人くらいでしたら、私が喜んで養いますよ」 「嘘でしょう?」 「嘘じゃない。私は美しいものが好きなんです。美しい陶器、美しい音楽、美しい布、美しい風景……そして美しい女性。まさにあなたみたいな方がね。そういうものに囲まれて暮らせれば、あとは何もいらない」そう言いながら、彼は手にしていた小鉢を縁側に置き、改まったように葉子を見た。「お住まいはどちら?」 「池袋にあるアパートに住んでます」 「ゆうべ、あなたはいくら聞いてもそれを教えてくださらなかった」鉄男は、さも可笑しそうに背中を揺らして笑った。「相当、酔ってたみたいですね。でも、それでよかったんです。教えてくだすってたら、私はあなたを送って行ったでしょうし、そうしたら、あなたがここに泊まることもなかった」  風が吹いて、梢の木の葉がさわさわと鳴った。風鈴の音がのどかに響きわたった。 「すてきなお庭ですね」前を向いたまま、葉子は言った。「気持ちがいいわ」 「こんなに小さな庭でも、本来、庭がもっている美しさを演出してやることはいくらでもできますからね。ただの庭といっても、造り手に美意識さえあれば、限りなく完全な美に近づけることは可能なんです」  かなりの教養のある人物か、さもなかったら、かなり教養があるということを装える人物であるらしかったが、朝から難しい話はしたくなかった。葉子は微笑しながら、そっと庭の一角を指さした。 「築山があるんですね」  苔むしたブロック塀に沿って、背の低い松の木が植えられており、その松の枝が大きく湾曲して木陰を作っているあたりに、大きくこんもりと、土が盛り上げられている箇所があった。 「築山じゃありません」鉄男は再び小鉢を手に取ると、できあがったすり餌の具合を確かめるようにして中を覗きこんだ。「あれは犬の墓です」  そう言われてみれば、墓に見えなくもなかった。盛り上がった部分には夏の草が生い茂っていたが、自然に茂ったという印象はなく、芝を植える時のように、どこからかわざわざ草を持ってきて、植えつけたようにも思われた。 「本当は猫のほうが好きなのですが、鳥屋ですからね。間違っても猫は飼えません」鉄男は言った。「去年の夏でした。ゴールデンレトリバーでしてね。身体が大きかったので、穴を掘るのも大変でしたよ」 「どうして死んだんですか」 「さあ、どうしてでしょう。腎臓がもともと弱かったみたいですが、解剖したわけではないので、はっきりしたことはわかりません。最後はかわいそうに、断末魔の悲鳴という感じで。それで……見るに見かねましてね、獣医に頼んで安楽死させてもらった」 「……かわいそうに」 「仕方ありません。人に飼われてしか生きられない動物の宿命です。彼らは生きるも死ぬも、最後は飼い主の判断に任せるしか方法はないのですから」  葉子が黙っていると、鉄男は手にした小鉢を目の前に掲げてみせた。「この餌を食べて育つ小鳥たちだって、同じことです。飼い主である私の判断に従って生きざるを得ないんです。たとえば私の店には、半年に一度ほど、近所に住む青年がやって来ましてね、セキセイインコをまとめて大量に買って行く」 「何のために?」 「蛇の餌にするためですよ」鉄男の顔に、場違いなほど品のいい雅びな笑みがにじんだ。「その青年は南米産の珍しいボアを飼ってるんです。ふつう、大きな蛇には生きたハツカネズミを与えるんですけどね。彼が飼っている蛇はハツカネズミをやっても食べない。何をやってもだめだ、というので、思いあまって私のところに相談に来たんです。セキセイインコはどうだろう、と私は教えてやった。ちょうど、弱って売り物にならないのが一羽いたものですから、ためしに持って行かせたんです。そうしたら、成功したらしくてね。以来、まとめ買いしていくんです」  葉子は眉をひそめた。「セキセイインコを蛇の餌に?」 「もちろん私だって、健康な鳥はそんなふうにさせたりしませんよ。私が青年に売っているのは、売り物にならない連中だけです。生命力が希薄だったり、先天的に奇形だったり、満足に餌も食べられなかったり……ね。かわいそうに、彼らは結局は早く死んでしまいます。飼い主である私は、飼い主である以上、彼らの運命を決めてやらざるを得ない」 「……残酷だわ。生かしてやろうとは思わないんですか」 「思いませんね」 「じゃあ、蛇の餌になるためにセキセイインコは生まれてくるの?」 「そういうやつらもいれば、そうじゃないやつらもいる。そういうことですよ。仕方ありません」 「でも、野生の鳥だったら、そう簡単には蛇の餌になんかならないはずです」 「さっきも言ったでしょう? 葉子さん。人間の判断によって生死が分けられる、というのはね、人に飼われている生き物のもつ、どうしようもない宿命なんですよ」  それまで流れていたクラシック音楽の音がしなくなった。鉄男は首をのばして縁側の先を見つめながら「ああ、終わったようだな」と言った。「シューベルトですよ。二、三日前、新しく発売されたばかりのCDを買ってきたんです。弦楽五重奏曲ハ長調。かつての歴史的名盤のCD化です。思っていた通り、美しさは比類がないですね。そう思いませんか」  葉子は答えなかった。庭の松の木のあたりで、蝉が鳴きだした。その声に風鈴の音が重なった。  風呂場はひどく古びていたが、昔ながらのヒノキの風呂桶は真新しく、洗い場の簀《す》の子《こ》も壁も天井も掃除が行き届いており、あたりには清々しい木の香りがたちこめていた。脱衣所には脱いだ服を入れる籐の籠が置かれ、中には清潔そうな純白のバスタオル、封を切っていない石鹸、使い捨ての歯ぶらし、買ったばかりと思われる箱入りの真新しいヘアブラシに水玉模様のシャワーキャップなどが入っていた。  それよりも何よりも葉子を感激させたのは、洗面台の上にランコムの基礎化粧品セットが一式、置かれていたことだった。籐製のしゃれた細長い盆に載せられた化粧品の小瓶の脇には、筆ペンで「ご自由にお使いください」と書かれた和紙のメモがはさまれていた。  病死したという妻が、生前、使っていたものなのだろうか、と葉子は訝《いぶか》しく思ったが、それにしては化粧品はすべて新品だった。封も切られてはおらず、汚れひとつついていなかった。  葉子が風呂からあがると、鉄男は彼女を茶の間に迎えた。茶の間では、小さなCDデッキから、シューベルトが甘く静かに流れていた。  よく磨かれた民芸調のテーブルの上に朝食が並べられていた。クロワッサン、レタスとトマトのサラダ、ハム、コーヒー……。切り子ガラスの大鉢には、水滴の跡もみずみずしい巨峰が一房、形よくおさまり、定規で計ったように正確に敷かれた二枚のランチョンマットは、深海の色をした藍染めだった。  麻の座布団に座って食事を始めながら、葉子は化粧品のことを聞いてみた。ああ、あれですか、と鉄男は照れたような顔をしてみせた。 「不審に思われるのも無理もありませんね。やもめの男が侘しく住んでいる家に、ランコムの化粧品セットが置いてあったら、人は気味悪く思うかもしれません。いやはや……ちょっと言いにくいし、そんなものをあなたにお使いいただいたことがバレてしまうのは気がひけるのですが……」  そう言って、鉄男はサラダを取り分け、小皿のひとつを葉子に手渡した。はにかんだような表情が、一瞬、鉄男の醜さに拍車をかけた。「あれは別れた女性が置いていったものなんです。一年ほど前になりますか。短い間でしたが、ここで一緒に暮らしていました。私が買い与えたものですし、おまけに封も切っていない新品ですから、届けてやりたいと思ったのですが……何が気にいらなかったのか、手荷物をまとめて、ぷいと出て行ったきり、連絡もよこさない。どこでどうしているのやら、わからなかったので、届けようもなく、結局そのままに……」  はあ、と葉子は言った。他に返事のしようがなかった。この人は、自分が女性にもてるということを強調したがっているのだろう、と思った。この顔で? そう思うと、ふいに噴き出したくなるような、それでいて意地悪な、場違いな嫉妬心のような気持ちがわきおこった。  葉子は、ほどよい焼き加減のクロワッサンをちぎって口に運び、皮肉めいた微笑を浮かべてみせた。「もてるんですね」  とんでもない、と鉄男は小さな目を丸くした。「私は世界で一番、もてない男です。説明しないでもおわかりでしょう。私はひれ伏してお願いして、なんとか女性に傍にいてもらってきただけですよ。死んだ女房もそうでした。結婚する時は、本当に足元にひれ伏しましたよ。頼んで頼んで頼みこんで、結婚してもらったんです。私のような男は、そうでもしないと、女性には口もきいてもらえないですからね」  軒先で軽やかに風鈴が鳴った。遠くの空をヘリコプターが飛んでいた。CDデッキからは、相変わらず甘い旋律が流れていた。  鉄男は、ふっ、と小さなため息をつき、萩焼のコーヒー茶碗を手に、熱のこもった視線を葉子に投げた。「私は確かに、美に対して厳しいとらえ方をする人間です。そういう人間はえてして、美を前にすると疵《きず》を探してやりたくなるものですが……あなたは違いますね。文句なく最上級の部類に入る。とりわけ、その肌です。あなたの肌は完璧だ。肌の色をした、なめらかなビロードのようだ」 「突然、話を変えないでください」葉子は笑った。笑いながら、さっき束の間、感じた嫉妬心のようなものが和らいで消えていくのを感じた。鉄男の吐く言葉には魔力があった。ただのお世辞だとわかりつつ、それは葉子を否応なく引きつけ、自尊心をくすぐった。 「あとで着物を着てみませんか」鉄男は言った。 「え?」 「あなたにぴったりの、是非、あなたに着ていただきたい着物がある。大島|紬《つむぎ》です。着てみてください。あれを着たあなたを見てみたい」 「無理だわ。帯も結べないし、襦袢の着方だってわからないし……」 「大丈夫。おいやでなければ、私が着付けをお手伝いします。これでも着付けはうまいんですよ。死んだおふくろが、しゃれっけのある女で、何かというと和服を着ていましてね。子供のころから、おふくろの着替えるところを見てきて、見よう見まねですが、すっかり覚えてしまいました。女房にも教えてやったくらいです。女房は、五分もあれば一人でさっさと着物を着ることができた。いかがですか? 着てみせてくれませんか」 「どうして私に?」 「私の審美眼に狂いがなければ」と鉄男は言った。「あなたには紬が似合うはずなんです。しかも、華やいだ友禅調の千代紙みたいな紬ではなく、泥大島がね」 「泥大島?」 「ものを知らない女性は、泥大島というと、お婆さんの着る着物じゃないの、なんて言い返してきます。私に言わせると、とんでもない間違いですよ。そんなふうに言う人に限って、こう言っては何ですが、美しさとは縁遠い人ばかり。本当に美しい女性は、泥大島を着こなせなくてはいけませんし、着こなせるはずなんです。あなたもですよ、葉子さん。きっと似合う。あなたこそ、泥大島の紬を着るにふさわしい人です。そうだな、帯は無地に近いものがいい。でも、あなたの年齢なら、帯揚げは絶対に朱色でしょうね。さもなかったら明るい柿色。帯揚げだけで若さと華やかさを表現するんです。驚くほど清潔な色気が出てくるはずです」  鉄男の目の輝きと興奮が、葉子にも伝染したようだった。葉子は自分が、目を輝かせながら鉄男の言葉を聞いているのを感じた。 「着てみてください」と鉄男は言った。「無理じいはしませんが」 「着ます」と葉子は言った。  食事を終えてから葉子は、茶の間の隣にある仄暗い、ひんやりとした和室に入った。仏間であった。大きな仏壇には、黄色い小菊の花が活けられ、先祖の位牌と共に女性の遺影が祀られていた。病死したという妻のようだった。  細面の可憐な女だった。鉄男が好みそうなタイプだ、と葉子は思ったが、何故、知り合って間もない男のことをわかったように決めつけることができるのか、自分でもよくわからなかった。  鉄男は、箪笥から和紙に包まれた着物を取り出した。彼の見ている前で着ているものを脱がねばならないのだろうか、と葉子は心配になったが、それは杞憂に過ぎなかった。襦袢姿になったら、声をかけてください、と言いおき、鉄男は部屋から出て行った。  服を脱ぎ、ストッキングを脱ぎ、足袋をはき、和装用の下着をつけた。襦袢を羽織り、そのままでは下着が見えてしまう、と思い、目についた紐で腰を縛った。  鉄男は部屋に入って来るなり、「失礼」と言いながら、手早く葉子が結んだ襦袢の腰紐を解いた。そして、肌があらわにならないよう、神業のような早さで襦袢の前を合わせると、畳に膝をつきながら腰紐を正しく結びなおした。 「泥大島はね、最近は売れなくなってしまったようです」鉄男はきびきびと動きながら、話し続けた。「人気が薄れて、織る人も少なくなりましたしね。その分、値段も高くなって、ますます売れなくなった。こんなに美しい着物なのに、残念な話です」  鉄男の手が否応なしに胸や腰、背中に触れてくる。器用に動く、力強い、あたたかく湿った大きな手だった。葉子は気恥ずかしくなったが、鉄男のほうでは意に介していない様子だった。  乾いた衣ずれの音が室内に響き渡った。部屋の障子は閉めきってあった。立っているだけで、たちまち全身に汗がにじんだ。 「汗をかいてますね」と鉄男は言った。 「ごめんなさい。着物に汗のしみがついてしまうかしら」 「いいんです。あなたのかいた清潔な汗が、紬の匂いと一緒になって、えもいわれぬ美しい香りになっていますから」  着付けは十分もかからぬうちに終わった。鉄男は畳の上に両膝をついたまま、崇《あが》めるようなまなざしで葉子を見上げた。 「思っていた通りです」彼は聞き取れないほど低い声で言った。目がうるんでいた。「泥大島はあなたのためにあった。見事です。完璧です。非のうちどころがない」  姿見に写し出された自分を見て、葉子は少し誇らしい気持ちになった。確かに老人めいた色合いの地味な着物ではあった。よく見ると唐草模様が描かれているのがわかるが、遠目には深い泥の色をした無地の着物に見える。  だが、淡い萌葱《もえぎ》色の帯と帯揚げの朱色が、ためらいがちな楚々とした色香を生んで美しかった。きちんと合わせた襟元に清潔感が漂い、半襟の白は神々しくて、仄暗い紬の色をかえって引き立て、妖しげですらあった。 「ガラスのケースにとじこめて飾っておきたくなりました」鉄男は大まじめに言った。度を越した興奮状態にあると見え、瞳は光を失ってくすんだ黒い玉になってしまったように見えた。 「自分ではよくわかりません。本当に似合ってますか」 「あなたのために誂《あつら》えたみたいです」と彼は言った。  一番、聞きたかったことを葉子は聞いた。「この着物、亡くなった奥さんのものなんですね?」  違います、と鉄男は言った。「さっきお話しした女性のものです。といっても、私が買ってやったものなんですが。あなたよりも三つ四つ年上の人でした。似合うはずだと思って、高価なものであることを承知で、知り合いの呉服屋に頼んで誂えさせたのですが……例外というものはあるんですね。彼女はあなたとは違った意味の、途方もない美人でしたが、不思議なことに、この着物は彼女には似合わなかった。本当に、まったくと言っていいほど似合わなかった」 「その方には何が似合ったんですか」葉子は鏡に向かったまま聞いた。  葉子の真後ろに座っていた鉄男は、鏡の中の葉子に向かい、「裸です」と言った。何かの鉱物の話でもしている時のように、どこかしら無機質な口調だった。「彼女は身に何かをまとわせるとだめになる女性でした。裸が一番、美しかった。実に鑑賞に価いする裸でした。顔もふくめて、化粧も服もアクセサリーも何も似合わない人でしたが、素顔で裸でいる時が誰よりも何よりも美しかった」  覚えのある、あの場違いな、嫉妬に似た感情が葉子の中で渦を巻きはじめた。何故、そんな気持ちになるのか、わからなかった。この男を好きになりかけているのだろうか、とも思った。だが、そんなことはあるはずもなかった。あってはならなかった。誰もが驚くほど醜い男なのだ。どうしてこんな男を好きになるはずがあるだろう。 「明るいところに出て、もっとじっくり見せてください」鉄男はそう言うなり、仏間の障子を開け放った。庭に面した縁側には、粘るような湿りけを帯びた夏の空気がこもっていた。 「着物を着た時は、着物を着ている、という状態を意識しないことが肝心です」鉄男はやんわりと教えさとした。「着物を着たからといって、内股で歩幅を狭くして歩く必要はありません。ふつうに歩いてごらんなさい。少し歩きにくいはずです。だったら、次に歩きやすいように歩いてみて……そう、ふつうに。そう。そんな感じです。じゃあ、次に座ってみてください。正座するつもりでまっすぐ腰を落として、次に足を楽にさせて……ああ、うん、素晴らしい。きれいだ……」  鉄男は急に言葉を失ったかのように、おし黙った。葉子は着物の袖をいじり回しながら、彼のほうを盗み見た。彼は何か畏れ多いものを前にしているかのように、後ずさりしながら葉子から遠ざかり、眩しそうに彼女を見つめていた。 「帯が苦しいわ」葉子は笑ってみせた。「慣れないせいですね」  鉄男は静かに首を横に振った。そして「ああ」と掠《かす》れたようなため息をもらした。「そこに青い蓮の花が咲いたみたいだ」 「やめてください。褒めすぎです」  鉄男はまた、首を横に振った。ゆっくりと。思わせぶりに。芝居じみた仕草だったが、そんな仕草は彼によく似合っていた。 「お勤めなどやめてしまいませんか」 「は?」 「池袋のアパートも引き払ってしまいませんか」 「何をおっしゃってるの」 「この男は頭がおかしい、と思ってるでしょうね。でも私は正気ですよ。あなたは今、女性が一生のうちで、もっとも美しくいられる時期を迎えようとしているんです。もったいない。鑑賞してくれる者がいてこそ、初めて美は美として機能し始める……」 「難しいことはわかりません。でも」と葉子は言い、うつむいた。「結婚まで考えてつきあってきた男の人に、別の女の人がいました。それがはっきりわかったのが、昨日だったんです。そんなことがなかったら、私は今、ここでこうやって着物なんか着ていなかったんでしょうね」  鉄男は姿勢を変えずに縁側に立ったまま、じっと葉子を見下ろしていた。その目は、博物館のケースの中に陳列された、古い雛人形を見る目に似ていた。 「世の中には」と鉄男は言った。「美の何たるかがわからない人間が大勢います。美に対して何の想像力もない愚かしい男に身を委ねる必要は、何ひとつありませんよ」  鉄男は自分自身の言った言葉を再確認するようにして深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すと、葉子の隣に来てしゃがみこんだ。柔和なまなざしが葉子に向けられた。「今夜も泊まっていってくれますね?」  葉子は沈黙した。胸にあたたかな漣《さざなみ》のようなものが広がった。その波に身を任せたら最後、どこに行き着くのか、わかるような気がした。それでも自分は、進んで波に乗り、流されていくだろう、と彼女は思った。 「はい」と葉子は喉を詰まらせながら、うなずいた。「そうさせてください」  鉄男の小さな不細工な目が、満足げな光を放った。  葉子はその晩、鉄男の家に泊まり、月曜日の朝、鉄男の家から勤務先の建設会社に出勤した。仮病をつかって午後三時に早退し、いったん、池袋の自分のアパートに帰って、下着類と当面の着替えをボストンバッグに詰めこんだ。留守番電話のテープが回りきっていたが、ひどく気が急いていて、誰が何をこんなに長々と録音したのか、聞いてみたいとも思わなかった。  六時ころ、ボストンバッグを手に鉄男の家に戻ると、鉄男が風呂をわかして待っていてくれた。汗を流していらっしゃい、と彼は言った。今日は近くの神社で夏祭りがあるんです、後で一緒にのぞいてみましょう、と。  葉子が風呂からあがると、鉄男は浴衣を着せてくれた。藍色の地に淡い藤色の桔梗《ききよう》の花が描かれた美しい浴衣だった。  これは女房のものでも、出て行った女性のものでもありません、と彼は言った。「実を言うと、今夜、祭りがあることを知って、昼間、呉服屋まで行き、買いそろえてきたんです」  あなたのために、と言われ、葉子は幸福な気持ちになった。彼が死んだ妻のものや、出て行った女性のものを葉子の身につけさせなかったことが嬉しかった。  ふたりで神社まで行き、夕食代わりに屋台の焼きそばやとうもろこしを分け合って食べた。何をしていても、鉄男は葉子から目を離そうとしなかった。彼の視線は常に葉子に、こう語りかけていた。あなたは美しい、あなたは完全だ、あなたは私を引きつける、あなたは私を虜にする……。  屋台をひやかして歩いていたところ、いきなり後ろから「鉄っちゃんじゃないか」と声をかけられた。同じ商店街でガラス屋を営んでいる、田坂という男で、鉄男とは小学生のころからの幼なじみだということだった。 「相変わらずお盛んだねえ。いったいいつから、こんな美人を……」田坂はくすくす笑いながら鉄男の脇腹を肘で突つき、何事か耳打ちした。何を言ったのか、葉子には聞き取れなかった。 「鉄っちゃんばかりが、何故もてる……か」田坂は煙草をくわえ、ライターで火をつけながら言った。「おまけにこれほどの美人ときてら。こっちはいいことなんか、何もないよ。なんたって、不景気でさあ。商売になんなくてゆうべも女房と大喧嘩だよ。ところでこの美人の名前は? 紹介くらいしてくれたっていいだろう?」  鉄男は「おいおい」と田坂をたしなめつつ、葉子を紹介した。  田坂は「いいねえ、浴衣姿が色っぽいねえ」と目を細めた。「うちの女房に見せてやりてえよ、まったく。おめえ、色気ってもんがないのか、って俺が言うだろ。そうすっと、あいつはさ、色気ってなんなのよ、忘れちまったわよ、あんたのせいで、なんて言いやがるんだ」  葉子は鉄男と顔を見合わせてくすくす笑った。  田坂と別れての帰り道、楽しくなってふと、葉子は鉄男の腕に腕をからませてみた。鉄男はされるままになっていた。それ以上、自分から葉子の身体に触れようとしないところが、嬉しくもあり、物足りなくもあった。  葉子はからませた腕にぶら下がるようにして、そっと身体を預けた。鉄男はさりげなく葉子から離れると、清涼飲料水の自動販売機の前に立ち、ポケットの小銭を探し始めた。  その週いっぱい、葉子は鉄男の家から会社に通っていたが、翌週の月曜日からは休むようになった。ためらいはなかった。丸四日間、風邪をひいたと嘘をついて欠勤を続け、金曜日になって出社した折、退職願いを提出した。急だったせいか、上司は驚き、理由を聞きたがった。葉子は「一身上の都合で」としか答えなかった。  会社を辞めると同時に、池袋のアパートも引き払うことにした。鉄男は、古くなった家具や食器は全部、捨ててくるように、と言った。押入れからあふれていた衣類もあらかじめより分け、鉄男に見せて恥ずかしいようなものはすべて捨ててしまった。引っ越しは楽だった。  ほどよい緊張感に包まれた、規則正しい生活が始まった。朝は遅くとも七時に起き、鉄男を手伝って小鳥たちの世話をした。籠を洗い、餌をやり、水を替える。雛鳥のためのすり餌を作る。鉄男が店と家中の畳に掃除機をすべらせている間、葉子は硬くしぼった清潔な雑巾で廊下や縁側を拭いて回る。そうした作業がすべて終わるのが八時半過ぎ。空腹に目がまわりそうになる。それからが、ゆったりとした朝食である。  朝食は鉄男が作ってくれた。部屋に流れる静かなクラシック音楽に耳を傾け、コーヒーを味わう。鉄男はいくら愛《め》でても愛で足りない美術品を前にしているかのように、食事をとりながらも葉子から目を離さない。  それは葉子にとって、決して小うるさい視線ではなかった。むしろ幸福に満たされた一日の始まりを約束してくれる視線であった。  食後、鉄男が店に出て行くと、葉子は薄化粧をした。朝起きてから食事を終えるまでは素顔のあなたを見ていたい、その後、夜になるまでは、薄く化粧をしたあなたを見ていたい……というのが鉄男の希望だった。夕食後は再び素顔に戻った。それが鉄男が求める「美しい葉子」の一日だった。  昼食をはさんで、午後になると、鉄男は接客の合間をぬって、店舗のすぐ脇にある小部屋で書き物をしたり、本を読んだり、美術書や写真集のページをめくったりして過ごした。外出することはめったになく、一時間に一度の割合で住居に戻ってきては、葉子を探し、葉子を眺め、葉子を有頂天にさせるセリフを吐き、満足げにうなずいては、再び店に帰って行くのだった。  店は遅くとも、午後五時半には閉めた。それからの鉄男は、葉子にかかりきりになった。風呂に入るよう促し、浴衣や大島紬を着せ、その姿で夕食をとるようにと言われる。食後は、葉子を縁先に座らせて庭で花火などをして見せてくれる。葉子の手持ちの洋服を部屋いっぱいに広げ、どんな組み合わせで着たら一番似合うか、あれこれ指示して葉子に着替えさせたりする。あるいはまた、よく冷えた西瓜を切り分けてきては、葉子の口から滴《したた》り落ちる果汁に見ほれ、「そのままでいてください。いま、その瞬間のあなたの唇を写真に撮りたい」と言うなり、カメラを探しに部屋から飛び出して行ったりするのだった。  といっても、ふたりきりで過ごす夜のひととき、彼が葉子に、性的な意味をこめて触れてくることは決してなかった。寝室も別々だった。彼が葉子に触れることがあるとしたら、着物の着付けをしてくれる時か、さもなかったら、ワンピースの背中のファスナーを締めてくれる時だけだった。  一度だけ、葉子は恥をしのんで鉄男に聞いてみたことがある。「あなたは不思議な人ですね。どうして私を……抱こうとしないの?」  その時の鉄男の答えはこうだった。 「私は美そのものと交わろうとは思いません。愛でることと、交わることを一緒にするべきではない、というのが私の考えです」  それは私にとって罪悪ですから、と彼はつけ加えたが、しばしの沈黙の後、ひどく言いにくそうに「あなたはそんなことを考えていたのですか」とつぶやくと、ほんのりと頬を染めた。  ガラス屋の田坂がひょっこり鉄男を訪ねて来たのは、その年の秋も深まった十月末の土曜日のことだった。  田坂はすでにどこかでしこたま飲んできたらしく、かなり酩酊していた。客間に通したのだが、足取りもおぼつかず、あぶなく障子を破られるところだった。  夕食を終えたばかりだった葉子は、田坂の相手を鉄男に任せ、台所で後片付けを始めた。鉄男が台所にやって来て、すまなそうに葉子に耳打ちした。「申し訳ない。時々、あの調子で現れるんです。ここのところ、めっきり少なくなって助かっていたのですが……早いところ、帰しますから、お茶だけ持って来てくれませんか」  日本茶をいれて客間まで行くと、田坂は声を張り上げた。「よう、鉄っちゃんの美人妻。その後どう? 鉄っちゃんにかわいがってもらってるかな?」  葉子は苦笑しながら、鉄男を見た。鉄男は苦々しい顔をしたまま、何も言わなかった。 「こいつは自分の顔は棚にあげて、女にはうるさいやつだからね。俺に言わせりゃ、ずうずうしいにもほどがある。どのツラ下げて、えらそうなことを言っとるんだ、ってね。死んじまったこいつの女房だってさ、あんなに可愛い人だったのに、こんなやつにほれたばっかりに、早死にしてさ。俺に言わせりゃ、そういうことさ。こいつが女の精気をみんな、吸い取っちまうんだ。吸血鬼みたいなもんさ。精気を吸い取れないような女は、平気で追い出しちまったりする」  やめなさい、と鉄男は田坂を制した。きびしい声だった。 「やめなさい、だって?」顔は笑っていたが、田坂は明らかに鉄男にからもうとしていた。「やめなさい? 誰に向かって言ってるんだよぉ、鉄っちゃんよぉ。え? 突然、あれだけの美人をさあ、なんにも悪くないってのに、たたき出しておいてさあ。やめなさい、なんて、気取るこたぁ、ないだろう」  鉄男は呆れたようにため息をついた。だが、その表情には何ひとつ、変化は見られなかった。 「まったく、何を考えてるのやら」田坂は熱燗と間違ってでもいるのか、背中を丸め、口をすぼめて日本茶をすすった。「この俺に一言の挨拶もなく、えっちゃんはいなくなっちまった。あの、えっちゃんが、だよ。俺とも仲良くしてたのによ。鉄男に追い出されたんなら、俺に挨拶の一つもしてくれてよかったのによ。俺んところに来てくれたら、嬶《かかあ》なんかどうでもいいから、俺がなんとか面倒みてやったのによ。それなのに、いなくなっちまってさ。どこに行ったかもわかんない。鉄男が追い出すってわかってたら、俺が引き取ってやったのによ。えっちゃん、かわいそうになあ」  泣き上戸であるらしかった。田坂は洟《はな》をすすりあげ、焦点の定まらない目で葉子のほうを見た。「葉子さん……だっけ? あんたも気をつけたほうがいいよ。鉄男ってやつはね、鬼みたいに残酷なところがあるからね。血も涙もないやつだからね。ある朝起きたら、出てけ、って言われるかもしれないよ」  田坂は、ふふっ、と楽しげに笑って葉子と鉄男を見比べるようにした。「俺、今日から葉子さんの応援団にまわるよ。鉄っちゃんが葉子さんを追い出したら、俺が葉子さんの面倒をみる。だから、葉子さん、安心してていいよ。鉄男が鬼だったら、俺は神様仏様だからね。忘れずに俺のところに来るんだよ。俺は優しいよ。鉄男なんかよりも男っぷりがいいよ。鉄男なんかよりも可愛がってあげられるよ。毎晩毎晩。約束するよ」  客間の障子は開いていた。縁側の雨戸はまだ閉めていなかったので、ガラス戸越しに庭が見えた。部屋の明かりが外に流れてはいたものの、こんもりと盛り上がった「犬の墓」は闇にのまれて見分けがつかなかった。 「あのう」と葉子はおずおずと口をはさんだ。「えっちゃん、って……犬の名前じゃないですよね」  田坂は驚いたように目を丸くし、やがて身体を揺すって笑いはじめた。  その晩、田坂が帰ると、鉄男は葉子に酔っぱらいの相手をさせてしまったことをあやまり、自分から「えっちゃん」の話を始めた。 「一緒に暮らしていた人というのは、悦子という名前でした。田坂は彼女のことがとても気にいっていて……あのころは頻繁にうちに来てましたね。もっとも、田坂は私の死んだ妻のことも気にいってましたし、今日の様子では、あなたのこともとても気にいったようですが。そういう男なんです。飲むとだらしなくなって、しつこくなりますが、根はいいやつです。品のないことをいろいろ言ってたようですが……許してやってください」 「出て行ったんじゃないんですね」葉子は言った。「悦子さんっていう人、自分から出て行ったんじゃなくて、鉄男さんが追い出したんですね」  鉄男に嘘をつかれていたことが悲しかった。鉄男が追い出したのなら、何故、そう言ってくれなかったのか、と不思議でもあった。彼が嘘をつかねばならない理由がわからなかった。背後に何か途方もなく重大な秘密が、隠されているような気もしたが、それが何なのか、何故、そんなことを考えてしまうのか、葉子にはわからなかった。 「どうしてなんですか」葉子は聞いた。「どうして追い出したりしたの?」  二人は茶の間にいた。CDデッキからは、初めて葉子がこの家に来た時に聞いたシューベルトが低く流れていた。  鉄男はテーブルの上に片肘をつきながら、上目遣いに葉子を見つめた。 「目尻にね」と彼は言った。「……でき始めているのを知ってしまったからですよ」  何か一言、言葉を聞き逃したのか、と思った。葉子はもう一度、聞き返した。「何を見たんですって?」 「皺です。ちりめんみたいに細かい皺でした。よく見ないとわからない程度でしたが、でもやっぱりそれは皺でした」鉄男はそこまで言うと、両腕を枕にしてゆっくりと畳の上に仰向けに倒れた。「以前、あなたにも言ったでしょう? 美はいつかは逃げ出します。そういう性質のものなのです。だから……」 「だから追い出したってわけですか」葉子は声を荒らげた。「目尻にちりめん皺ができたから? たったそれだけの理由で?」 「しかし、それまでの彼女は完璧でしたよ。大島紬は似合いませんでしたが、完璧でした」 「裸が、でしょう?」葉子は意地悪く言った。  鉄男はむっくりと起き上がると、テーブル越しに葉子をまじまじと見つめ、微笑んだ。 「何を怒ってるんです? おかしいな、葉子さん。あなたの目尻にちりめん皺が発見されたわけじゃないんですよ。いつも言ってるでしょう。あなたは美において完璧なんです」 「でもいつかは私も年をとるわ。目尻にちりめん皺ができて、口元に笑い皺ができて、ウエストに肉がついて、くびれがわからなくなって、顔の皮膚が垂れてくるんだわ」 「今から案じる必要はないですよ」励ましているつもりなのか、鉄男は力をこめて言った。「あなたの旬は現在です。たった今、この瞬間なんです。先を思いわずらってはいけません。美を味わう喜びが半減してしまう」 「埋めたのね?」泣き声になっていた。葉子は繰り返した。「埋めたんでしょう」 「何の話です」 「死んだ犬と一緒に埋めたんだわ。悦子さんがいなくなったのは去年の夏だったんでしょう? 犬が死んだのもそのころだ、って確か、鉄男さん、そう言ったわ。だから一緒に埋めたのよ。きっとそうよ」 「葉子さん。どうかしている」鉄男は立ち上がって葉子の傍にやって来るなり、彼女の顔を覗きこんだ。「私が悦子を埋めた? どういうことです」 「目尻に皺ができたからよ」葉子は喉を震わせ、唇を震わせ、小鼻をはげしく動かしながら、訴えかけるように言った。「目尻にちりめん皺を見つけたから殺したのよ。死んだ奥さんだって、もしかするとそうだったのかもしれない。二重あごになったから、お尻が垂れてきたから、顔にしみを見つけたから……なんでもいい、なんでもいいけど、あなたが気にいらない醜いものを何か見つけたら最後、あなたにはもう、その人がいらなくなってしまうんだわ。だめなセキセイインコを蛇の餌にしてしまうみたいに、平気で捨ててしまうんだわ」  鉄男は、黙っていた。葉子はしゃくり上げた。しゃくり上げながら、泣き顔が醜くなっていないかどうか、不安になった。  鉄男の顔に無表情が拡がった。葉子はぞっとした。  彼は黙ったまま、おずおずと指を伸ばすと、葉子の頬に流れる涙をすくい取った。  きれいだ、という言葉が鉄男の口からもれた。「あなたの涙はまるで、ビロードの上にこぼれた朝露ですね」  今となっては、その種の言葉は葉子にとってなくてはならないものになっていた。ほっとするあまり、何をどう考えたらいいのか、わからなくなった。  葉子は安堵の涙を流しながら、鉄男の胸に顔を埋めた。      *  新聞記事より抜粋。 「小鳥店経営者殺される。容疑の同居女性逮捕。  三月二十九日午前六時四十分ころ、東京都港区の小鳥店経営、長沼鉄男さん(四三)宅から、女性の声で『長沼さんを殺した。すぐに来てほしい』と一一〇番通報があった。  M警察署の署員が駆けつけたところ、店の奥にある小部屋で長沼さんが首を紐で締められたうえ、喉を包丁で刺されて死んでいた。同署は一一〇番通報をした女性(二六)を殺人の疑いで現行犯逮捕した。  調べによると、女性は昨年の夏、長沼さんと知り合ってから長沼さん宅に同居するようになったが、最近になって、自分の額に皺ができているのがわかり、いつ長沼さんに知られるかと思うと怖くなって、読書中の長沼さんを発作的に殺した、とわけのわからないことを話している。また、長沼さんが以前、つきあっていた女性を殺し、庭に埋めているはずだ、とも言い、同署が長沼さん宅の庭を調べたところ、白骨が見つかったが、鑑定の結果、犬の骨であることが判明。警察では容疑の女性の精神鑑定を依頼している」 [#改ページ]    秋桜の家  夫が死んだ。死なれてみると、初めからこの人は早死にする、とどこかでわかっていたような気もした。  眉毛が薄い男は早死にする……志保は田舎の迷信深い祖母からそう聞かされて育った。結婚するなら、眉毛の濃い男を選ぶんだよ、と言われ、以来、会う男会う男の眉を確かめる癖がついた。  夫は色黒で大柄で、誰よりも元気だったが眉の薄い男だった。結婚を口にされた時、それでもいい、と思った。志保は生きることに疲れていた。安定した結婚をし、家庭というものに繋ぎとめられてみたかった。相手は誰でもよかった。  それでも一度だけ、ふざけて自分の眉墨を使い、深酒をして熟睡している夫の眉を描いてやったことがある。黒く塗りつぶしてやると、夫がうんざりするほど長生きするような気がしていやになった。慌ててクレンジングクリームを使って拭き取った。再び薄い眉が現れ、それを見下ろしながら、やっぱり先に死なれるのは寂しいような気持ちにかられて、ふいに鼻の奥が熱くなった。  死後のことは、まだ意識があるうちに、夫が万端整えてくれていた。一人で生活していく上で心配すること、困ることは何もなさそうだった。案じることを何ひとつ残さなかった、というのは、いかにも夫らしい最期だった。  夫は前妻と死別していた。間に和馬という名の一人息子がいて、和馬はここしばらく、行方知れずのままだった。父親の命が尽きかかっている、ということを早く知らせてやりたかったのに、居所がなかなかわからず往生した。  東京に住む夫の友人が、事情を知って精力的に探しまわってくれた。和馬が東京で小さなスポーツ用品店を任されていることを突き止めた時、すでに夫は柩の中だった。志保は通夜の準備にかかりきりだったため、まだ和馬とは電話で話もしていない。  家の前にはコスモス畑が広がっている。数年前、近所の農家の人間が、空いている農地でコスモスの栽培を始めたのだが、さしたる収入にもならない、というので手放した。自生のコスモスは種を飛ばして増え続け、今では道端や志保の家の庭にも咲き乱れて、夏になれば、あたり一面コスモスの花に埋めつくされる。  志保は今、そのコスモス畑の向こうに和馬が現れるのを待っている。風が吹くたびに二階の軒先の風鈴がちりちりと鳴り、それに応じるかのように、背丈を伸ばしたコスモスの花が一斉に首を振る。  さっきから車の音がしたと思ったら、やって来るのは町の人ばかりである。人々はコスモス畑の脇の狭い道路に車を停め、次から次へと連なるようにして降りて来る。みんな黒っぽい服装をして、手に数珠を持ち、神妙な顔をしながら、初秋の埃のたったような道をぞろぞろ歩いて、家の中に入って来る。  志保を見て、言葉を失ったように目を伏せる人もいれば、「裕ちゃん、裕ちゃん」と夫の名を連呼し、男泣きに遺影を見上げて泣きくずれる人もいる。線香の匂いがきつい。手伝いに来てくれている近所の主婦たちが、台所で黙々と立ち働いている気配がする。子供が数人、あたりを走り回って大人に叱られている。どこの子供なのか、志保にはわからない。  夫には大勢、町に知り合いがいた。町中の人が夫の友達、親戚だったと言ってもよかった。夫は町の人気者、町の名士だった。  まだ日の高い夕暮れ時だが、風には早くも秋の気配が感じられる。陽を浴びたコスモス畑に、無数のトンボが飛び交っている。それぞれのトンボの薄い羽が光を透かし、はたはたと揺れ、花の上に小さな淡いレースのヴェールを広げていくように見える。  そのコスモスの群落の向こうに、和馬が消えていった日のことを志保は思い出す。霧の出た日の朝だった。桃色の花がぼんやりと霧に煙り、和馬の後ろ姿もやがてその中に滲《にじ》んでいって、最後に今一度、名残惜しげに振り返ってくれたのかどうか、はっきりしなかった。そのことが、長い間、志保を愚かしく苦しめたのだが、何故、そんなことで苦しんだのか、今も志保にはわからない。 「大丈夫だって」  身近に声がし、はっとして振り返ると、老婆がひとり、いつのまにか傍に来て、志保に寄り添うように立っていた。「和ちゃん、じきに来るよ。ちゃんと連絡とれたんだから、心配しないでも大丈夫だよ」  夫の親戚筋にあたる老婆だった。トヨノさん、としか聞かされていないから苗字のほうはわからない。  夫にはいろいろな親戚がいる。まともに働いている人間もいれば、そうでない人、働いてはいるが、突拍子もない騒動を起こす人もいて、それはあたかも夫の血筋の象徴のようにさえ見える。トヨノは若いころ、隣の温泉町にある旅館の仲居をしていた。五十になって三つ年下の旅館の番頭といい仲になり、心中未遂事件を起こしたのだと夫から聞いている。 「和ちゃんとは何年ぶりよ」トヨノがいっそう志保に近づき、声をひそめた。吐く息にネギの匂いが混ざっていた。 「二年ぶりです」 「和ちゃんもねえ、いいかげん、都会暮らしに見切りをつけなきゃねえ。ちゃんと帰って来て、しっかり親父さんの供養をして、あんたの支えにならなきゃ。それが男の務めってもんだからさあ」  自分と和馬とが、この家で、何をしたのか、どんな会話を交わし合ったのか、誰一人として知る者はいない。夫もその秘密を知らぬまま、逝ってしまった。  トヨノは遺影を振り返り、「早過ぎたよねえ」と言った。皺の寄った目に涙が滲んだ。  産卵中の海亀の目のようだ、と志保は思った。  志保が夫の大林裕次郎と共に、和馬と初めて会ったのは三年前の六月。入籍して間もない頃だった。  待ち合わせに使ったのは、銀座の裏通りにある安レストランだった。カツレツだのハンバーグだの海の幸のフライだの、メニューにあるのは味噌汁と漬物に食後のコーヒーがセットされた定食ばかりで、テーブルには赤い格子縞のビニールクロスが敷かれているような店である。店内には時代がかったようなアルゼンチンタンゴが流れ、店主の趣味なのか、窓という窓にはステンドグラスを模した、けばけばしい大きなシールが貼られていた。  もっと豪勢な夕食を奢ってやるつもりだったのに、あいつ、何を遠慮してるんだか、と裕次郎は店内をひとわたり眺めまわして苦笑した。  式をあげなかったせいで、裕次郎の親類縁者、知人友人たちが入れ替わり立ち替わり訪れ、連日のように深夜まで飲み明かしていった。応対に追われた志保が疲れていたのに対し、その日、裕次郎は元気そのものだった。俺も久しぶりの東京だ、今夜は飯を食った後、三人でのんびり映画でも観に行くか、志保の買物につきあってもいいぞ、そうだ、帝国ホテルの中に入ってる店で、デオールのスーツでも買ってやろう、クリスチャン・デオールだよ、それがいい、そうしよう……などと言い始めた。  舶来雑貨の店を経営しているくせに、裕次郎は横文字には弱かった。ディオールと言おうとすると、デオールになってしまう。自分に教養があると思ったことは一度もなかったから、志保は裕次郎の無教養にはかえって安心してつきあうことができた。  志保が何よりも嫌い、軽蔑するのは精神の低い男だった。前の夫は一流大学出で、学歴も教養もトップクラスだったが、精神が低俗だった。妻に隠れていくら浮気してくれてもかまわない、寝たの寝ないの、といった問題で大騒ぎする気もなかった。志保はただ、会社の仕事が忙しいと嘘をつき、海外出張と偽って愛人とグアム島に一週間も滞在し、あげく会社にそのことがばれそうになると、妻に弁解させようとした男の、はしたないほどの精神の低さに人生の夢を壊されたことが悲しかった。  裕次郎とは、たまたま彼が仕事で上京した際、共通の知人に面白半分で引き合わされた。引き合わされたその場所で、お互い独り者なんだから、この際、その気になってつきあってみたらどうか、などと言われ、面食らった。  裕次郎は五十五、志保は三十八になっていたが、年齢の差はあまり感じられなかった。話が楽しく、笑わせられてばかりいて、何の話をしたのかも忘れてしまうような出会いだったが、以後、裕次郎からは連日のように、志保の勤め先に電話がかかってくるようになった。大きな身体からは想像もつかないような小さな文字で、綿々と求愛を綴った手紙も送られてきた。気持ちの底が温まってくるような、無邪気で率直な手紙だった。  信州M町唯一の舶来雑貨店は、主に観光客相手に営業を続け、とてつもなく繁盛している様子だった。妻に病死されて以来、町のめぼしい女たちを口説きまくり、年甲斐もなく乱れた生活をしていたのも、金回りがよかったせいらしい。だが、そういったことを包み隠さず告白してくるような正直さに、志保は好感をもった。  裕次郎の両親はすでに他界していた。彼を含めて四人の兄弟がいたが、いずれも離れて暮らしており、一人息子の和馬もすでに二十八。人間関係上、煩わしいことは起こりそうになかった。  裕次郎がまだ見ぬ再婚相手のために新築した白壁の瀟洒《しようしや》な家は、信州ののどかな田園風景の中にあった。朝に夕に、たっぷりとした青空と生い茂る緑の雑木林を望むことのできるその家で、庭に花を育てながら新しい生活を送ることを考えると、志保の胸ははずんだ。  結婚したら、あんたを店に立たせることはしないし、仕事のことはすべて自分がやる、あんたは家の中にいて好きなことをしていればいい……そう言われて決心がついた。不幸な結婚をして以来、生きることに疲れてきた。何もしたくなかった。夫が外に作った女のことで仄暗《ほのぐら》い嫉妬に苦しむ必要もなく、朝から晩まで家にいて、家事にかかりきりになる暮らしができると思うと嬉しかった。  再婚のお話、ありがたくお受けします、と神妙な顔をして答えた時、裕次郎は青年のように飛び上がって喜んだ。和馬のやつもびっくりするだろう、あの野郎、親父の再婚相手になってくれるような殊勝な女がいるわけがないなんて言いやがった……そう言って裕次郎は、やおら、いたずらっぽい笑顔を作ってみせた。「俺の息子、俺に似ていい男だよ。あんた、俺じゃなくて、息子と一緒になればよかったなんて言い出すかもしれないよ」  もてるんでしょうね、と志保が言うと、裕次郎は相好を崩し、「俺には勝てない」と言ってげらげら笑った。  その和馬は、約束した時間が十分過ぎ、二十分過ぎても店に現れなかった。そのうちあたりが急に暗くなったと思うと、雨が降り始め、雨足は瞬く間に強くなった。  裕次郎が何度か席を立ち、和馬の事務所に電話をかけに行った。和馬は池袋で、学生時代の友達と一緒に便利屋をやっていた。  出払ってるらしい、誰も出て来ないよ、と電話をかけに行くたびに、裕次郎はぷりぷりしながら戻って来た。  いい年をした夫婦が、まがりなりにも食事を出す店で、コーヒーを注文したまま長時間ねばっているわけにもいかなかった。雨足は弱まりそうになく、そのせいか、六時半を過ぎたというのに、店に客は誰もやって来ない。空いた席で、退屈そうにスポーツ紙を読んでいた五十がらみの店主らしき男が欠伸《あくび》ばかりを繰り返し、目に涙をためている。  仕方ない、先に食事をしてしまおう、と裕次郎が不機嫌そうに言い出した、まさにその時だった。店のガラス扉の向こうに人影が見えたと思ったら、一組の男女が雨の音と共になだれこむようにして中に飛び込んで来た。  女のほうは男ものの上着を頭にかぶっていたが、男は頭から足の先までびしょ濡れだった。それまで低く流れていたアルゼンチンタンゴの音色が、二人の騒々しいようなため息、嬌声、舌打ちにかき消された。 「よう、親父」と男が言い、ぶるん、と髪の毛を揺すって裕次郎に笑いかけた。  それが和馬だった。岸にあがったばかりの水鳥のように、彼の身体から水しぶきが一面に飛び散った。あたりに虹色の光が満ちた。 「遅れて悪かった。ごめん。これでも一生懸命、走って来たんだぜ。途中で傘を買おうと思ったんだけど、その時間も惜しくてね」  店主が、にこにこしながら乾いたタオルを二枚、持って来た。和馬のなじみの店なのか、二人は親しげな挨拶を交わし合った。  和馬はタオルで無造作に頭をごしごしこすった。柔らかそうな黒い髪の毛が、烏の羽毛のように右へ左へ、美しい束を作るのが見えた。  和馬の目が志保をとらえた。美しい白い歯を見せて晴れ晴れとした笑みを浮かべるなり、和馬はもう一度、大きく頭を振った。清潔なたてがみのように見える髪の毛が、ほどなく元通りになった。着ていた白い綿シャツの襟元を芝居がかった仕草で正すと、和馬は落ちついた足取りで志保の傍にやって来た。 「初めてなのに、こんなに遅れて申し訳ない。でも、この店のポークカツは絶品ですからね。食べれば待たされたこと、忘れてもらえるかもしれない」 「馬鹿野郎」裕次郎が照れ隠しなのか、呻くように言うと、顎をしゃくってみせた。「くだらん言い訳をするな。それよりあちらのお嬢さんは誰なんだ。恋人を連れて来るだなんて、一言も言ってなかったじゃないか」  その若い娘は、和馬から離れたところに、所在なげに立っていた。二十歳そこそこのように見えた。額の真ん中で分けた、艶のない黒髪をまっすぐ背中に垂らしている。耳に大きな金色のイヤリングをつけ、腰の線を強調した焦げ茶色のロングスカートに、丈の短い黄色いTシャツ姿。Tシャツの襟ぐりは深くV字型に開いており、授乳期の母親を思わせる豊かな乳房の谷間が覗き見えた。  豊満さと繊細さが同居しているような身体つきは人の目を惹いたが、どこかしら陰気さを漂わせている娘だった。丁寧に化粧を施してはいても、顔に表情と呼べるものは何もなく、そのせいか、気の毒なほどの不器量さばかりが目立った。  和馬は「来いよ」と娘を呼びつけ、父親と志保の前に立たせると、娘の肩を抱き寄せ、野上由香里さん、と紹介した。写真専門学校に通いながら、池袋の喫茶店でウェイトレスのアルバイトをしている、という話だった。  はじめまして、と由香里がぺこりと頭を下げた。言ったのはそれだけだった。微笑みもせず、かといっておどおどするというわけでもない。そこにそうして立っていろと言われれば永遠に立っているに違いない、ある種の愚鈍さを見せつけながら、由香里は相変わらず表情のない顔をぼんやり宙に浮かせたまま、じっとしていた。  だが、裕次郎はことのほか嬉しそうだった。 「こいつが恋人を紹介してくれるなんて初めてだよ」裕次郎は志保に向かい、上機嫌で言った。「和ちゃんは東京でハーレムやって楽しんでんじゃねえのか、とか、いやいや、ホモになっちまったのかもしれない、とか、まわりがいろんなこと言うもんだから、かえってこっちは、どうにでもなれや、と思ってたんだけどな。おい和馬。彼女とはどこでどうやって知り合ったんだ」 「由香里の働いている店が、うちの事務所の近くなんだ。毎日のように通ってた時期があってね、そこでなんとなく……さ」そう言って、和馬はもう一度、由香里の肩を引き寄せ、強く抱いた。されるままになっていた由香里は、男の前で必死でたしなみを保とうとする中年女のように、異様に腰をくねらせてうつむいた。 「そうか。わかった。立ち話もそのくらいでいいだろう。さあさあ、二人とも座って、座って。飯の前に乾杯だ。ワイン? ビール? ウィスキーもあるぞ」  裕次郎は生ビールを四つ注文し、さてと、と言いながら、ふざけた顔をして和馬を見た。「で、何とか言ったらどうなんだ。俺の女房は美人だと思わないか」  和馬は大きくうなずき、志保を見ていたずらっぽく微笑んだ。  志保は目を伏せて、笑いながら身体をよじった。「いやだわ、みんなでからかって。美人だろう、って聞かれて、首を横に振る人なんかいないでしょ」 「あなたは親父にはもったいないな」和馬が言った。やんちゃな少年が、ふと我にかえって、まっすぐな、嘘偽りのない、正直な意見を言う時のような真摯なまなざしが志保を包んだ。志保はうたれたようになった。 「どっちみち、今夜はめでたいぞ。俺が再婚しただけじゃなくて、和馬が恋人を連れて来たんだ。さあ、乾杯だ、乾杯」  裕次郎が店主を急かし、慌ただしく生ビールの用意が整えられた。四人はグラスを重ね合わせた。  よく見ると、裕次郎とどこか面差しは似ていたが、和馬は裕次郎にはない翳りを帯びた熱情のようなものを漂わせている男だった。その翳り、その熱っぽさは、女の性的関心を呼び覚ますに違いない、と志保は思った。  彼の、底知れず謎めいた美しい笑顔の奥にあるものに触れてみたかった。初めて会って、十分もたっていなかった。にもかかわらず、そんなことを考えている自分に気づき、志保は得体の知れない不安を覚えた。 「結婚するのか」早くもほろ酔い加減になった裕次郎が由香里を見ながら、息子に聞いている。 「まだそんなこと、考えてないよ」  和馬は気のないふりを装うようにして言いながら、ナイフとフォークを動かしてポークカツレツを切り刻む。由香里はうつむいたまま、ぼそぼそと皿のものを食べ続けている。  和馬の目がまたしても志保に注がれる。他愛のない会話のさなかだというのに、和馬の視線にこめられた熱っぽさのようなものが、志保の視線を搦《から》め取ってやまない。逸《そ》らしても逸らしても、志保の目は和馬の視線を求めて吸い寄せられていく。 「おい、和馬。おまえ、志保のことはどう呼ぶつもりなんだ」いきなり裕次郎が聞く。「たった十しか年が違わないんだから、お母さん、でもないだろうしな。お姉さん、ってのもちょっと違うし……」 「名前じゃいけませんか」和馬が父にではなく、志保に向かって聞く。「志保さん、って呼ばせてください」 「もちろんそれでかまいません」志保は言う。  ははっ、と裕次郎が笑いだす。「志保、俺の息子に敬語なんか使うな。おまえもおまえだ。何気取ってんだよ。志保があんまりいい女なんで、緊張してるんだろう。ざまあみろ。俺はまだまだ現役なんだからな」  由香里がその日初めて、くすくすと肩を揺らして笑った。笑うと少し、表情が生まれて、顔つきが和らいだ。  皿にナイフがあたる音が繰り返される。雨はまだ止まない。客は相変わらず彼らだけで、繰り返し流されるアルゼンチンタンゴも相変わらずだ。ステンドグラスを模した窓の外に、銀座の裏通りのネオンがぎらぎらと光っているのが見える。  時間が瞬く間に過ぎ去った。酔いも手伝ってか、志保にとってそれは流れ去る時間ではなく、濃厚に、ねっとりとそこに留まり、次の瞬間、一切が終わっているといった、不意打ちにも似たひとときだったように思えた。  財布を手に裕次郎がレジの前に立ち、おい、と言って外に出て行きかけた息子を呼び止めた。 「これからどうする。まだいいだろう。どこか皆でホテルのバーにでも飲みに行くか」  和馬は店の外に佇んでいた由香里をちらりと見て、「いや」と言った。「今日はやめとくよ」 「なんだ。つきあいが悪いな」 「そういうわけじゃないんだ。ただ……。近いうちに家に帰るからさ。その時、ゆっくりさせてもらうよ」 「近いうち、っていつだ」 「そうだな。夏にでも」 「そうしてくれ。みんなおまえのことを待ってるんだ。ろくでもない息子なのに、おまえに会いたがってる連中が大勢いる。ありがたく思っとけ」  和馬は父親にではなく、志保に向かって微笑みかけ、「会えてよかった」といくらか照れくさそうに片手を差し出した。「親父をよろしく」  つられるようにして手に手を重ね、志保は「こちらこそ」と言った。しっかりとした肉厚の、それでいて奇妙な繊細さを感じさせる手が、それとわからぬほどかすかに意味ありげな力をこめて、志保の手を握り返した。  くわえ煙草のままクレジットカードのサインをした裕次郎は、ふいに生真面目な表情を作って息子を振り返った。「金のほうはどうなんだ。困ってるんじゃないだろうな」 「平気だよ」 「仕事はどうだ」 「順調だって言ったろう?」 「馬鹿なことは金輪際やるなよ。いいな?」  わかってるよ、と和馬が言うと、裕次郎はいきなり乱暴にその腕を引き寄せ、耳元に何事か囁いた。よせよ、と和馬は苦笑し、父親から身体を離した。裕次郎は和馬の背を驚くほど大きな音をたてて殴りつけ、豪快に笑った。  店を出てタクシーを拾い、二人きりになってから志保は、さっき息子さんに何を囁いたの、と聞いてみた。  裕次郎は「もうあの娘とやったのか、って聞いただけさ」と言い、煙草に火をつけながら、ふん、と煩わしそうに鼻を鳴らした。「あの調子で外面がいいから、ついつい憎めなくなって尻拭いさせられる。俺も甘かったとつくづく思うよ」 「素敵な息子さんじゃないの。ハンサムで明るくて。何の問題もなさそうに見えるけど」 「おいおい聞かせてやるよ」そう言うなり、珍しく裕次郎は黙りこくった。  和馬はもともと成績もよく、おまけに運動好きの子供だったという。東京の私立大学を三年の途中で中退し、ウインドサーフィンに凝っていた知り合いに誘われて、大船にあるサーファーショップの雇われ店長になったのも、覚えたてのウインドサーフィンに夢中になっていたせいだった。  持ち前の魅力で若年層の顧客をつかみ、張り切っていたのも束の間、店のオーナーが大麻所持で逮捕され、和馬にも嫌疑がかかった。証拠はあがらなかったものの、その事件を機に、和馬には転落の道が用意された。  ありきたりの事務職では飽き足らず、資本金ゼロでもできる、と知って一人で便利屋を開業。探偵のまねごとや、下水の掃除、飛行機チケットの手配、ペットの世話から未亡人のテレホンセックスの相手まで、ありとあらゆることを引き受けているうち、通っていた場末のスナックで元暴力団関係者と知り合い、親しくなった。新しく六本木にできるカジノバーの雇われ店長にならないかと誘ってきたのも、その男だった。  金髪の女たちがひしめき合うカジノバーだった。賭け事の面白さはそこで覚えた。やめられなくなった。  借金がかさみ、その金を返そうとしてまた賭け事に手を出した。高額の金が動く賭け事なら何でもよかった。  だが、そのカジノバーもまもなく経営困難に陥り、閉店に追いこまれた。その後はまた、便利屋に舞い戻った。  学生時代の友達を誘い、まじめに営業を始めたが、雪だるま式に増えていく借金が和馬を悩ませ続けた。ちんぴら相手に新宿裏通りで大立ち回りを演じ、和馬が刺されたのではなく、和馬が殴りつけた相手が気絶して救急車で運ばれ、警察の事情聴取を受けたこともあった。  だが、妙に決然としたところが和馬にはあった。何が起こっても、父親には一切、泣き言は言わなかった。父親が事情を聞いてもはっきり答えず、曖昧にはぐらかした。  おまえの借金のせいで首を括らなくちゃいけなくなったら、化けて出てやるからな、と裕次郎がおどかしても、親父にだけは迷惑はかけないよ、ときっぱり言う。  よほど困っているのだろう、と考えて、M町に戻って来い、一緒に俺の店をやろう、などと誘ってみても、和馬は、冗談だろ、と笑うばかりで応じる素振りは見せなかった。  だが、裕次郎にはうすうす察しはついていた。時折、裕次郎は黙って息子に金を送った。十万でも二十万でもいい。あるいはそれは和馬にとってはした金にもならないのかもしれないのだが、いくらかでも足しになれば、と思って送る。  息子はそのたびに明るい声で電話をかけてきて、「悪いな、親父」と言った。「デート代に使わせてもらうよ。女の子が群がってきて、月の稼ぎの大半はそっちに消えちゃうんだ」と。  どこでどう間違ったんだか、わからんよ、と裕次郎は、ホテルのベッドの中で仰向けになったまま、ため息をついた。「大林んところの和馬は東大に行って高級官僚になるに違いない、ってみんなに言われてたもんだった。それがこのざまだ」 「でも、ちっともそう見えない」志保は言った。「育ちのよさがにじみ出てる。あなたや亡くなった奥さんの教育がよかったのね、きっと」 「馬鹿言え。あいつはどんな時でも演技をするのがうまいだけなんだ。どれが本音なのか、父親の俺にも、わかったためしがない。詐欺師みたいな野郎なんだよ」 「考えすぎよ。いろいろあって大変だからこそ、あなたを心配させまいとしてるんだわ」  裕次郎は口をへの字に結び、枕の上でゆっくりと首を横に振った。「和ちゃんは東京で何してるんだ、って町の連中に聞かれてさ、そのたびに俺は適当な嘘をでっち上げてやったもんだ。あいつの実体を連中が知ったら、たまげるだろうよ。俺がごまかしてやらなかったら、あいつは今頃、皆に冷たくされて、おちおち帰省もできなかったに違いないんだ」 「借金を作っても、親に頼らずに何とか自分だけで始末をつけようとしてるんでしょう? 立派だと思うけど」 「やけにあいつの肩を持つんだな」 「だって全然、いかがわしい感じがしないんですもの。息子さんがあのお店に入って来た時、なんだか映画の一シーンを見てるみたいだった。ハンサムでセクシーで、そこにいるだけで、パーッと花が咲いたみたいになって……」  裕次郎は、ベッドのスプリングを烈しく鳴らしながら、いきなり上半身を起こした。「惚れたのか」  明かりを消した闇の中で、一瞬、志保は身体を硬くした。 「どうなんだ。俺の息子に惚れたのか」  繰り返す裕次郎の声には、いたずらっぽい響きがこめられていた。咄嗟《とつさ》に機転をきかせた志保が「惚れたわよ。あなたの息子さんなんだもの」と答えると、彼はげらげら笑いながら、「そうだろう、やっぱりな」と言い、勢いよくシーツの下に手をもぐりこませるなり、志保の乳房を愛撫し始めた。  銀座で父親と約束した通り、その年の夏、和馬はM町に帰って来た。それは一度ならず、冬にかけて二度三度と続いた。  和馬が帰省した、という話は瞬く間に町中に広がり、夜ともなると、家には大勢の親類縁者や町の人々が集まって来た。  寄合所と化した裕次郎の家の居間では、飲むほどに酔うほどに、人々の馬鹿げたホラ話やだみ声の歌が始まった。次期町長選に裕次郎を立候補させようという動きがあるものだから、裕次郎は大勢の人間が集まると必ず、町政について一席ぶち始める。和馬を中心に人の輪ができ、誰もが台所に立とうとしない。志保ばかりが顎で使われ、酒の用意、氷の用意に走らされる。  だが、そんな晩、志保は自分がいつになく活き活きと張り切っているのを感じた。どれほど動きまわっても疲れなかった。志保さん、まだ赤ん坊はできねえのかい、ちゃんと裕ちゃんに可愛がってもらってるのかい? などとからかわれ、品のない笑い声をあげられても、まるで腹は立たなかった。  宴もたけなわになってくると、決まって誰かが、志保と和馬を引き合いに出して冗談を言い始めた。「しかし何だね。こうして見ると、志保さんの亭主は和ちゃんのほうが似合ってるように見えるね。この二人、美男美女じゃねえか」 「最近じゃ、年下の男と結婚するのが流行ってるって言うしなあ」 「この際、思いきって、裕ちゃんをお払い箱にすればいいさ。親父と息子を交換しろや。なあ、志保さん、裕ちゃんみたいな年寄りよりも、やっぱり若い男のほうがいいよなあ。和ちゃんはいい男だし、ぴちぴちしてるし、あっちのほうも絶倫間違いなしだからさあ」  一斉に卑猥な笑い声がはじける。町長選の話題に夢中になっている裕次郎は、聞いていない。真剣な顔をして演説を続けている。  志保がちらと和馬を見ると、和馬も志保を見ている。志保は笑いかける。和馬もまた、あの、人をどぎまぎさせるような目で志保を見つめたまま、若者らしいおどけた仕草で苦笑してみせる。  そのたびに、思いがけず胸に熱いものが流れるのを覚えて、志保は一人、台所に行き、冷たい水に手を浸して気持ちを鎮めなければならなかった。  久しぶりに家に戻ると、いつもこの調子なんだ、と和馬は客人たちが帰った後、志保を手伝って洗いものをしながら言う。「ごめんよ。疲れたろう?」 「人気者だものね、和ちゃんは」と志保は笑う。「お父さんとそっくり。町の人みんなに慕われて」 「本当はうっとうしいんだよ。でもこういう小さな田舎町では仕方ない。嫌われるよりましだから」 「そうなんでしょうね」 「一度くだらないことが原因で嫌われちゃうと、なかなか修復できなくなって大変なんだよ。でも志保さんは初めっから大丈夫だったみたいだな。みんな、志保さんのこと、すごく気にいってる」 「そう? 鬼のような嫁だ、なんて言われてない?」  まさか、と和馬は楽しげに天井を仰ぐようにして笑う。志保も笑う。流しの洗い桶の中で、洗剤の泡に包まれた手と手が、時折、軽く触れ合う。 「志保さんは先に寝てていいんだよ。あとは全部、僕がやっとくから」  いいのよ、と志保は言う。「和ちゃんこそ寝てちょうだい。お風呂もわいてるわ。入ってきたらどう?」  うん、と言いつつ、和馬はその場から離れない。二人は、ぽつりぽつりと、どうでもいいような話をしながら、黙々と洗いものを続ける。食器の音、蛇口から流れる水の音が響く中、開け放した台所の小窓の向こうで、しきりと秋の虫が鳴いている。  こうしてるとなんだか、と和馬が意味ありげな言葉をつぶやいたのは、その年の暮れ、十二月に入ってまもなくのことだった。ふいに東京から帰って来て、翌日また早い時間に戻らないといけない、と和馬が言うのに、裕次郎が親戚たちに連絡してしまったものだから、いつものように和馬を囲む宴会が始まった。  その日に限って客はなかなか腰をあげず、最後まで飲み続けていたグループが、怪しげなハンドルさばきで車を運転しながら帰って行った時、時刻はすでに午前一時をまわっていた。  泥酔した裕次郎は先に休み、台所には志保と和馬しかいなかった。  志保は「え?」と聞き返した。「今、何て言ったの?」 「こうしてると、なんだか落ちつくな、って言ったんだ」  ひどく冷え込む夜だった。外には小雪が舞い始めていた。蛇口から迸《ほとばし》る湯が、もうもうと湯気をあげ、志保の頬にまとわりついた。  志保は大きく息を吸い、笑いかけた。「和ちゃんが家に帰って来て、落ちついた気分になってくれるのなら、私も嬉しい。のんびりすることなんて、滅多にないんでしょう」 「なにしろ目茶苦茶な人生を送ってるからね」和馬は志保を肩ごしに見下ろしながら微笑んだ。  志保も微笑み返し、首を横に振った。「疲れたら、いつでも好きな時に帰ってらっしゃいね。ここはあなたの家なんだもの。私に遠慮なんかしないでね」 「遠慮するどころか、志保さんがいてくれるのなら、毎週でも戻って来るよ」  志保は黙っていた。和馬が洗いものの手を休め、志保を見た。胸がしめつけられるように痛んだ。年上の女をからかうもんじゃない……そう言ってやりたかった。 「だったら毎週、戻ってらっしゃいよ」志保は冗談めかして言った。「いっそのこと、ここに住んじゃえば?」 「そうできればいいね」  いつになく大人びた声で和馬はそう言うと、思いつめたような目をして志保を見つめ、薄く笑った。  だが、志保が裕次郎に黙っていそいそと、和馬の分まで正月支度を整えておいたにもかかわらず、年が明けても和馬はM町に帰って来なかった。どこに行ったのか、便利屋の事務所、アパートいずれに電話をかけても、テープに録音された和馬の声が留守を告げるばかりだった。  どうせ旅行にでも行ったんだろう、と裕次郎は言った。さほど心配している様子はなかった。和馬の居所が突然わからなくなることは、過去に何度かあったようだった。  そうかと思うと和馬は何の連絡もなく、夜遅くなってひょっこり姿を現すこともあった。手みやげに上等な菓子などを買って来て、急にここでコーヒーが飲みたくなったから車を飛ばして来た、などと言う。志保がコーヒーをいれてやると、うまそうに飲み、陽気に冗談を飛ばすのだが、小一時間もたたないうちに、帰ると言いだす。  そして、裕次郎の前であるにもかかわらず、ほんとのこと言うと、志保さんの顔を見に来たんだ、それだけだよ、と和馬は言った。殊勝なことを言うじゃねえか、とからかう裕次郎の声を背に、和馬は玄関で慌ただしく靴をはく。そして、次の瞬間、素っ気ない挨拶を一つしただけで、車に乗りこんでしまうのだった。  志保さんの顔を見に来た……本心なのか、冗談で言ったに過ぎないのか、わからない。志保は寝床の中で和馬が口にした言葉の数々、自分に向けられたまなざしの熱さ、仕草の一つ一つに至るまでを微細に思い返す。  恋に焦がれる十五、六の少女のようだ、と思いながら、隣で大の字になって眠っている裕次郎の大いびきに我に返り、自分の心の不貞にざわざわとした胸騒ぎを覚える。和馬はこの人の息子なのだ、と思う。自分とは戸籍上の親子なのだ、と考える。  そのたびに得体の知れない恐怖心につき動かされ、志保はきつく目を閉じて自分だけの闇の中にとじこもるのだった。  夢に浮かされているような、それでいて危ういような月日が流れ、気がつくと、志保はM町での二度目の夏を迎えていた。  その夏も終わりかけた頃、かねてから決めていた通り、裕次郎は町の商店会の人々と共に、五泊六日の予定でハワイにゴルフ旅行に出かけることになった。翌年の町長選挙を控え、裕次郎自身が企画した旅行で、参加者は裕次郎の支持者ばかりだった。  志保も同行することになっていたものの、直前になって、加地静男という男の法事が旅行中に行われることになっていることに気がついた。M町のはずれで自動車修理工場を経営していた男である。加地は車の修理をしようと身を屈めた途端、烈しい心臓発作を起こし、呆気なく他界した。裕次郎とは同年齢で、互いに幼なじみという間柄であった。  加地の命日に、夫婦ともどもハワイで遊んでいるわけにはいかない、かといって、この旅行は選挙戦を戦うための重要な旅行である、法事だからといって、今さら旅行をキャンセルするわけにはいかない、おまえが代理で出席してくれると顔も立つし、加地のやつもあの世で喜んでくれるだろう、と言われ、志保は内心、ほっとした。寄ると触ると、人々は町長選の話に花を咲かせていた。たまにはその話題から逃れていたかった。  裕次郎の留守中、舶来雑貨店の店番は裕次郎がすでに手配済みで、志保の出る幕はなかった。言われた通り、菩提寺でしめやかに営まれた加地静男の法事に出席した後、志保は誰もいない家でのんびり過ごす自由を与えられることになった。  和馬から電話がかかってきたのは、裕次郎が翌日、帰国する、という時になってからである。  今晩帰るよ、と和馬は言った。ひどく騒々しい場所からかけていたせいか、それとも、電話そのものが壊れていたからか、和馬の声は聞こえても、志保の声は相手になかなか届かない様子だった。 「お父さんは今ハワイなのよ」志保は何度か、大声でそう言った。そのたびに、和馬は「え?」と聞き返してきた。  そのうち電話が混線し始めた。他の男女の喋り声が聞こえてきた。わけがわからなくなって困り果て、思わずフックに指が伸びた。気がつくと電話は切れていた。  別の電話を使ってかけ直してくるものと思っていたが、和馬からの電話はなかった。連絡がないまま、その晩、八時過ぎに外のコスモス畑のあたりで車の音がした。門灯の明かりが届かない闇の中に、和馬の乗った車のヘッドライトが黄色い光の線を描き、それがコスモスの群落を舐めるように一撫でしていくのが見えた。  ライトが消された。静まりかえった道に靴音が響いた。未舗装の道の小石をじりじりと踏みつける音だった。志保は居間のベランダに佇んだ。志保のシルエットを見つけ、和馬が大きく手を振った。志保も手を振り返した。  いつもの癖で、玄関から入ろうとせず、庭を横切り、ベランダから居間に上がって来た和馬は、瞬きを繰り返しながらまっすぐに志保を見て、「やあ」と言った。志保が町で買って来たばかりの南部鉄の風鈴が、その時、二階の寝室の軒先で澄んだ音をたてた。 「元気だった?」和馬は白い歯を見せて微笑みながら聞いた。志保はうなずいた。  胸が詰まる思いがした。和馬は何の変哲もない白いTシャツにブルージーンズといういでたちだった。不精髭が伸びかけて、顎のあたりに陰影を作っている。少し疲れているようでもある。  だが彼は、賭け事に手を出し、借金に苦しみ、追われ、人知れず裏街道の闇の中を渡り歩くような人生を送っている男には見えなかった。彼は途方もなく清潔で気高く、途方もなく清々しく、そして、途方もなく性的な感じがした。 「お父さん、お留守なのよ」  志保は内心の動揺をごまかしつつ、キッチンカウンターの上に、ビールグラスを並べながら言った。「暑かったでしょう? まず冷たいビールでもどう?」 「またライオンズクラブか何かの例会?」 「ハワイでゴルフよ。商店会の人たちと一緒に」志保はさりげなさを装った。「さっきの電話でそう言ったんだけど、途中で切れちゃって。電話、壊れてたみたいね」  うん、と和馬は言った。わずかの間があいた。「で、帰りはいつ?」 「明日。ここに着くのは夕方になるって」  和馬はどこか意味ありげにうなずいた。うなずいた後で、「わかった」と言った。  志保は笑ってみせた。息苦しさがあった。どうしようもなかった。「変な和ちゃん。何がわかったのよ」  いや、別に、と和馬は言った。  会話がいっとき途切れた。不自然な途切れ方だった。 「明日の午前中には東京に戻ってなくちゃいけないんだ」 「忙しそうね」 「だから……今日は泊まるけど、いい?」  志保は短く笑った。「ここは和ちゃんの家なのよ。どうして私の許可がいるの?」  庭で虫が鳴いていた。闇に浮かぶコスモスの花が、薄桃色の美しい幻のように家の前に広がっていた。  和馬は黙っていた。視線が志保に張りついた。  何かが起こる、と志保は確信した。起こるに決まっていた。まるであらかじめ決められていたことのように、それは起こるのだった。起こらずに済むはずはないのだった。  志保は盆に冷えたビールとグラスを載せ、居間のセンターテーブルに運んだ。二人は長椅子に並んで座った。ビールがなくなると、次にウィスキーの水割りを飲んだ。飲んでも飲んでも酔いはまわってこなかった。  頭の芯が冴えわたり、ぽつりぽつりと交わす会話のすべてが記憶の襞に刻まれていくというのに、にもかかわらず身体が宙に浮くような感じ、めまいに襲われるような感じがした。  庭の虫の音が大きくなった。どこか遥か遠くで、かんしゃく玉を打ち鳴らす音がしていた。だが、聞こえるのはそれだけだった。風がやんだ。畑のコスモスの花だけが、闇の中に浮き上がった。  ふいに部屋の明かりが消された。和馬の顔がすぐ傍に迫ってきた。  和馬は何も言わなかった。囁きもしなければ、志保の名を呼びもしなかった。  それは、志保が人知れず待ち望み、死ぬほど焦がれていた瞬間だった。和馬の接吻を受けながら、志保は知らず、和馬の首に両腕を回していた。和馬の身体から、ふわりと汗の匂いが立ちのぼった。和馬の手が志保の乳房をまさぐった。二人の膝がぶつかり合い、重なり合った。  いけないことが始まる、とは思わなかった。罪の意識、おびえ、不安、何もなかった。志保は自分が、深い深い井戸の底に落ちていき、あらゆることを受け入れ、呑み込み、同時にあらゆることを捨て去って、それでもなお、井戸の底に向かって無限に落ちていくのを感じていた。  目ざめてみると、そこは寝室のベッドであり、裕次郎の大いびきの代わりに、窓の外の虫の音だけが部屋を充たしていた。  居間のソファーで、しばらく和馬と抱き合ったままでいたが、風邪をひくといけないから、と言う和馬に軽々と抱き上げられて寝室に運ばれた。それからすぐに、うとうとしたらしいのだが、どのくらいの間、そうしていたのか、十分なのか、一時間なのか、志保にはわからなかった。  耳をすませてみた。外の虫の音以外、何も聞こえず、家の中はしんとしていた。  志保はベッドの上に身体を起こし、サイドテーブルのスタンドに手を伸ばした。明かりが一瞬にして部屋の闇を蹴散らし、志保は思わず悲鳴をあげそうになった。窓辺の肘掛け椅子に和馬が座って、じっと志保のほうを見ていた。 「驚いた。そこにいたの?」  和馬は光に眩しげに目を細め、うっすらと微笑んだ。指にはさんだ煙草の紫煙が、ゆらゆらとたなびいて、そのまま窓の外に流れていくのが見えた。  和馬は上半身裸のまま、ジーンズをはいていた。志保は自分が全裸のままでいたことに気づき、慌ててベッドから出るなり、クローゼットの扉を開けた。畳み方が悪かったのか、夫のパジャマだけが棚からふわりと落ちて来た。仕方なくそれを羽織った。  束の間、裕次郎のことを思った。遥か遠い、過去の記憶の中の人物のように思えるのが辛かった。 「志保さんに話しておきたいことがある」和馬が低い声で言った。  パジャマの前ボタンをとめながら、志保が振り返ると、和馬はスタンドの黄色い明かりの中でそっと目をそむけた。「これまで話す勇気がなかった。一時間後には、もう勇気がなくなってるかもしれない。でも、今なら話せる。だから……聞いてほしい」 「どうしたの。何?」  沈黙が流れた。和馬は短くなった煙草を灰皿でもみ消してから、苦痛をこらえてでもいるかのように、小さくため息をついた。 「三年前、俺は轢《ひ》き逃げをした」  夫のパジャマは大きすぎた。大きすぎて胸がはだけてしまう、ということに気持ちを集中しようとした。だが、できなかった。志保はその場に立ちすくんだ。 「埼玉県の秩父のあたりだった。真夜中だよ。気がついたら人をはねてた。相手は酔っぱらって道に飛び出して来た男だった。どうして逃げ出したのか、今もうまく説明できないんだ。これ以上、トラブルを抱えるのはいやだ、と思ったからかもしれない。ともかく俺は逃げ出して、そのまま車を走らせながら、この町の近くまで来て、加地のおやじさんのところに電話した」 「加地のおやじさん?」志保は聞き返した。「亡くなった加地静男さんのこと? ついこの間、法事があって、私、出席したわ」  和馬は力なくうなずいた。「加地のおやじは、うちの親父と幼なじみで昔から仲がよかった。俺のことも自分の息子みたいに可愛がってくれてたしね。おやじさんは、奥さんと二人暮らしだったけど、ちょうどそのころ、奥さんが娘のお産を手伝いに福島だか秋田だかに行ってる、って話をうちの親父から聞いてたんだ。案の定、おやじさんは一人で家にいた。電話口で、頼むからへこんだバンパーとボンネットを至急なんとかしてほしい、できればタイヤも交換してほしい、と頼んだ」 「……轢き逃げのことも言ったの?」 「言った。もし言わなかったとしても、ひと目見ればわかったはずだよ。バンパーには血がこびりついてたからね。工場内に車を運ぶと他の従業員にばれてしまうから、おやじの家のガレージに車を入れさせてもらった。加地のおやじはすぐ来てくれた。おまえが裕ちゃんの伜《せがれ》じゃなかったら、今頃、警察に突き出してやってたところだ、って言われたよ」そこまで言うと、和馬はがくりと頭を垂れながら、「信じられないことに」とつけ加えた。「あのおやじ、完璧な仕事をしてくれた」  証拠|湮滅《いんめつ》作業は、裕次郎にも内密にされたまま、短期間のうちに終了した。加地静男は、以後、和馬と顔を合わせるのをいやがり、和馬が電話をかけると、二度とうちに電話してくるな、と言った。そして一ケ月後、心臓の発作を起こして呆気なく逝った。  いくら完璧に車を直しても、被害者の身体に残したであろう、わずかな塗料などから面が割れるに決まっている、ひょっとしたら目撃者がいたのかもしれない、とおびえる日々が続いた。だが、警察は三ケ月たっても半年たっても、それどころか、今に至るまで、和馬の周辺をうろつくことはなかったという。 「今日戻って来たのは、加地のおやじさんの墓参りをしたかったからなんだ。ゆうべ、ここに来る前に墓に寄って来た。暗かったけど、手さぐりで花を手向けてきたよ」和馬は消えいるような声で言った。「あの人は、俺の秘密を抱えたまま死んでしまった……。うちの親父はもちろん何も知らない。それどころか、この町の人の誰一人、俺が人を轢き殺したということを知らない。なのに、加地のおやじさんだけは……」  和馬の背と肩が小刻みに震え始めた。俺のせいだ、と彼は言った。「死ぬ時くらい、きれいさっぱり、秘密を持たずに死にたかったろうに。誰に義理立てしたのか、くだらない秘密を抱えこんだりして……さっさと警察に行きゃあよかったんだ」  ひくひくと和馬の喉が鳴った。志保は和馬の座っている肘掛け椅子の横にひざまずき、和馬の背をさすった。和馬は顔をそむけ、洟《はな》をすすりあげた。 「その人……和ちゃんがはねた人って、死んだの?」 「翌日の新聞に載ってた。即死だったみたいだ」  そう、と志保は言った。夫のパジャマの前部分を両手でかき合わせた。かすかに夫の匂いがした。 「何故、その話を私に……」  和馬は手の甲で乱暴に目のあたりを拭うと、やおら椅子から立ち上がり、志保に背を向けた。「志保さんにだけは知っててもらいたかった」 「私がお父さんに告げ口するかもしれない、とは思わなかったの?」 「思わない」和馬はきっぱりとそう言い、横隔膜を広げて大きく息を吸い込むと、志保を振り返って唇を噛んだ。「思わないよ。あなたはそういう人じゃない」 「買いかぶってるのかもしれないわ。私は少なくとも……あなたのお父さんの妻なのよ」  いや、と和馬は首を横に振った。後に続く言葉を待ったが、彼はもう何も言わなかった。  翌朝早く、志保がいれたコーヒーを飲み終えた和馬は東京に帰るために家を出た。霧の深い朝だった。たちこめる地霧が渦を巻き、あたりを乳色に染めていた。  居間に続くベランダから外に出ようとした和馬は、戸口のところで立ち止まり、素早く志保の腰を抱きすくめた。  和馬は何も言わなかった。志保も何も言わなかった。言えなかった。  霧に煙ったコスモスの群落をぬうようにして去って行く、和馬の後ろ姿を見送った。その姿は次第に霧の中に滲んでいき、黒い染みのようになり、やがて何も見えなくなった。車のドアを閉める音がし、エンジンがかけられる音がした。  和ちゃん、と志保は声に出して言った。コスモスの花のかすかな色彩が、乳色にかすむ風景をおぼろに染める中、和馬の乗った車が小石をはね飛ばす気配があった。あたりの霧がいっそう濃くなった。エンジン音がいっとき強くなり、たちまちそれは遠ざかって行って、あとにはさらさらと流れる霧の音だけが残された。  和馬の居所がはっきりしなくなったのは、それからだった。  ごくたまに電話がかかってきたが、和馬は、元気でいる、心配しないでほしい、と一方的に言うばかりで、何を聞いても答えない。ゆっくり話をしたいと思っても、忙しいから、人を待たせてるので、などと言い訳され、電話はものの一、二分で慌ただしく切れてしまう。事情があって池袋の便利屋の事務所はたたんだ、新しい仕事を始める準備があって、今はあちこち転々としているから住居も決まっていない、落ちつき先が決まったらまた教える……それだけの近況を知るのに、半年ほどかかる始末だった。  そのうち電話の回数も減り、やがて連絡は途絶えた。忘れたころに葉書が送られて来る。勢いあまったような大きな文字で、時候の挨拶ばかりが続けられ、こちらは元気です、親父と志保さんの健康を祈ります、などという形ばかりの文章で結ばれている。大林和馬という署名の横に連絡先は一切、書かれておらず、消印からかろうじて東京都内にいるらしい、ということがわかるばかりであった。  何かまずい状況にあるのだったら、いずれ何か連絡があるはずだ、どこからも何とも言ってこないのだから、心配はいらないだろう、などと言い、相変わらず裕次郎は表向き鷹揚に構えていた。昔からどこで何をしてるのか、わからない息子だったんだ、今さらあいつが何を始めようが、俺の知ったことではない、と言われてしまうと、志保は黙るしかなかった。  町長選出馬が正式に決まり、その準備に追われていたせいもあって、裕次郎が和馬の話をすることも少なくなった。  決してゆるされない過ちを犯したというのに、当の夫を前にすると、志保は和馬の話がしたくてたまらなくなった。和馬と過ごした晩の話、和馬と交わした性愛の悦び、和馬の肌、和馬の吐息、和馬の日向くさいような体臭の一つ一つを、聞いてもらいたかった。東京のホテルで初めて和馬の過去を詳しく裕次郎から聞き、和馬をほめちぎった時のように、夫に向かって、和ちゃんは素敵なのよ、いい匂いがするのよ、私は和ちゃんに溺れたのよ、と教えたかった。  一方、和馬から打ち明けられた恐ろしい秘密は、日々刻々、志保の中で形を変えていった。それは時として、官能の淵でいっとき耳にした幻聴に過ぎなかったもののように思われた。自分は和馬とあの秘密を共有している、彼の共犯者である、と考えると、和馬の長期にわたる不在、裕次郎に対する罪の意識にも耐えられるほどであった。  やがて裕次郎は町長選に立候補し、朝から晩まで、町内を走り回るような生活を送るようになった。志保は、町内に設置された選挙事務所を任された。入れ替わり立ち替わり、町の人々が事務所を訪れた。お茶をいれ、灰皿を替え、茶菓子をふるまい、夫に対するおべんちゃらを受けて愛想よく微笑み、お辞儀をし、また微笑み、そうやって一日が暮れていった。  和馬が事務所に現れる可能性は万に一つもなかったが、時折、志保は扉を開けて中に入って来る和馬の幻影を見た。どういうわけか、幻の和馬はいつも手にコスモスの花束を抱えていて、それを無造作に志保に向かって差し出しながら、眩しそうに目を細め、やあ、と言うのだった。  或る晩、支持者が開いてくれた激励パーティーに出席し、遅くなって家に戻った裕次郎は、玄関先で表情のない顔をし、棒立ちになったまま、じっと志保を見て、おい、と言った。  はい、と志保は言った。一瞬、不吉な連想が志保の中をかけめぐった。裕次郎の目は死んでいた。怒りも不安も猜疑心も光もない、深海を泳ぐ鮫の目のようだった。夫がそんな目で自分を見たことはなかった。  どうしたんです、と志保は聞いた。  裕次郎は答えなかった。彼は片手でネクタイをむしり取ると、そのまま前につんのめるようにして洗面所に走った。げえげえ、と烈しく吐き戻す気配があった。  おい、と夫の声がした。声に次いで、どさりと何かが崩れ落ちる音がした。  行ってみると、夫は自分が吐いた夥《おびただ》しい血の中に、顔を埋めて倒れていた。  病院では絶対安静を命じられた。選挙まであと十日という時だった。裕次郎はベッドで暴れ、冗談じゃない、こんなところで寝てる暇はないんだ、と言って入院を拒み続けたが、医師は冷やかにそれを制した。  吐血の原因はすぐに判明した。胃癌に伴って大きくなり、破れた潰瘍のせいだった。癌はすでに手のほどこしようがない、と宣告された。  選挙戦の慌ただしさの中、具合の悪いのを気力だけで持ちこたえてきた様子ですね、と医師から言われ、志保は首を傾げた。食欲、顔色、元気のよさ、何もかも、それまでの裕次郎に変わった点は見当たらなかった。夫は精力的で、忙しい時でも三日とあげずに身体を求めてきた。なのに、痩せたことにも気づかなかった。天罰だ、と志保は思った。  選挙当日、裕次郎は特別に病院を出ることを許され、事務所で結果を待った。裕次郎圧勝が告げられ、居合わせた者全員が万歳を繰り返した時、裕次郎は支持者に向かって、おもむろに自分の病状を打ち明けた。  残された命が数ケ月とわかっていて、満足な仕事ができるはずもない、と言い、裕次郎が町長就任を辞退する旨、発表すると、あたりは静まり返った。誰もが呆然として口をきかなかった。ウグイス嬢がすすり泣きを始め、男たちが男泣きに泣き出し、それにつられるようにして裕次郎本人も嗚咽《おえつ》をもらした。  日に日に衰えていく裕次郎に付き添いながら、志保はできるだけ何も考えないようにした。考え始めると、霧の中に飲み込まれて自分が見えなくなるような気がした。過去のことも未来のことも何も考えずに、日がな一日、ただベッドに寄り添い、裕次郎から「何か面白い話を話せ」と言われたら、必死になって面白い話を探し、裕次郎が問わず語りに昔話を始めると、必死になって耳を傾ける。そんなふうにして過ごしながら、近づいてくる夫の死から逃げずにいることしかできないのだ、と自分に言いきかせると、少しは気持ちが楽になった。  まだ意識がはっきりしていた或る日のこと、裕次郎は個室のベッドに横たわったまま、珍しく力のこもった声で、「志保」と呼びかけた。「これからはな、志保と二人きりで過ごしたいから、見舞い客は全員、断ってくれ。誰とも会いたくない」  志保が約束すると、安心したように裕次郎はベッドから手を伸ばし、志保の手を求めた。そして病人とは思えない力強さでその手を握りしめた後、ふいに加地静男の話をし始めたのだった。 「俺は加地から、さぞかし憎まれてたんだと思うよ。俺が前の女房に死なれた後のことだった。加地の女房が俺にちょっかい出してきてな。彼女とは中学の時からの同級生で、昔、俺にませたラブレターよこしたことがある。悪い気はしないし、ついつい情がわいて、火遊びにつきあったのさ。加地がそのことに気づいたのかどうかはわからない。もともと、俺と違っておとなしいやつだった。一言もそんな話はしないまんま、死んでいきやがった。子供ん時からの友達だったのによ。俺も馬鹿なことしたもんだと今は思うよ。志保と再婚して、俺は罰あたりなことをした、とつくづく思うようになった。加地はあの女房に惚れてたんだ。恋女房を寝取られたら、どんな気持ちになるか、今の俺にはようくわかる」  雨の日だった。病室の窓の軒下に、番《つが》いの鳩が飛んで来て雨宿りを始めた。  和馬は嘘をついた、と志保は思った。轢き逃げの話も嘘。加地が証拠を湮滅してくれたという話も嘘。かつて女房を寝取られた男が、その寝取った相手の息子の轢き逃げ事件をもみ消してくれるはずはない。  息子は演技がうまい、と言っていた裕次郎の言葉が思い出された。どれが本音なのかわかりゃしない、詐欺師みたいな野郎だよ、と。  二度と同じ過ちを繰り返すつもりはない、と宣言するための嘘だったのか。それとも、あなたを抱いたのは、あなたに対する情熱にかられたせいではない、ただの好奇心、いっときの欲情に抗えなくなったからに過ぎないのだ、と正直に告白するのもためらわれ、自らを轢き逃げ犯だと偽れば、志保との深入りを避けることができる、と考えたのか。  志保は法事で会った加地静男の妻の顔を思い浮かべた。美人だが、和馬が連れて来た恋人、由香里とどこか似た、陰気な面差しの女だった。父子ともども、陰気な女と縁がある、と思うと寂しいような可笑しさがこみあげた。  どうした、と聞かれ、なんでもない、と志保は答えて口をすぼめた。  軒下の番いの鳩が、不吉なほど大きな羽音をたてながら、その時、雨の中を飛び去った。  裕次郎の通夜に列席した人々は、なかなか帰ろうとしなかった。酒を飲み、煙草をふかし、鮨をつまんで、ひそひそと裕次郎の話をしながら、いつまでも居座り続けている。  この人たちは和馬を待っているのかもしれない、と志保は思う。ひと目、和馬の顔を見て、今頃までどこにいた、おやじさん、最後まで会いたがってたぞ、などと言い、和馬の肩を抱いて男泣きに泣くために待っているのかもしれなかった。  九月に入ったばかりとはいえ、残暑が去って夜になるとさすがに涼しい。大きく開け放した居間の窓から、肌寒いほどの風が入って来る。遺影に手向けられた線香が室内をもやもやと煙らせている。煙は風にあおられて、寂しく浮遊する魂か何かのように天井高く白い渦を巻く。  九時を過ぎた頃になって、それまで町の衆相手に酒の相手をしていたトヨノが、おや、と言って立ち上がり、背伸びしながら額に手をかざしてみせた。「来たよ。和ちゃん、帰って来たよ。ほれ、ごらん。車が一台入って来たよ。きっと和ちゃんだよ」  志保は弾かれたように窓辺に立った。トヨノの言う通り、車のヘッドライトが近づいて来て、コスモス畑の脇道で静かに止まった。人の背丈ほど伸びたコスモスの花は、煌々と灯された大林の家の明かりを受けて、秋の闇の中、凪いだ海のように静まり返っていた。  そのコスモスの海をかきわけるようにして、和馬が姿を現した。女を一人、連れていた。由香里だった。  人々が一斉に和馬を出迎えに、居間のベランダに走った。大声で何かわめき、和馬にすがって嗚咽する者もいれば、この親不孝者、今頃のこのこ帰ってきやがって、と裕次郎の口まねをして怒鳴りつける者もいた。  和馬は終始、無言だった。無言のまま家の中に入って来て、無言のまま志保の前を通り過ぎ、無言のまま柩の前に腰をおろした。  白麻の開襟シャツに薄茶色のズボン姿だった。シャツは清潔そうで、ズボンにはきちんと折り目が入っていた。  誰かが何か言いかけるのを、トヨノが「しっ」と言って制した。和馬は長い間、遺影を見ていた。泣きもせず、表情も変えず、ただじっと前を向いたまま、線香が煙る中、両膝に握りしめたこぶしをあてがい、和馬は身じろぎ一つしなかった。  由香里がそっと膝を折って、和馬の後ろに座った。和馬のズボンと似たような色の、丈の長い、身体にゆったりとしたジャンパースカートを着て、長い髪を首の後ろで束ねている。頬と顎のあたりに、たくさんの吹き出物が出ている。それを隠そうと厚化粧をしているせいで、ひどく老けて見える。  ほんの少し太り、乳房はさらに豊かになったようだったが、顔には相変わらず表情はなかった。陰気さばかりが増し、少し年をとったせいか、不器量さの中に汚らしさのようなものも垣間見える。  だが、町の人々は誰も、由香里と和馬がどのような関係なのか、その場で問いただそうとはしない。ただ和馬が何を言うか、泣くのか、詫びるのか、この目で見ようとじっと待ち構えている。  和馬はそっと肩を震わせて小さなため息をつくと、居合わせた人々を振り返り、正座して深々と頭を下げた。そして畳に額をこすりつけながら、長く不在にしていたことに対する詫びの言葉を述べ始めた。それは長く続いた。嗚咽がもれ、和馬の背が烈しく震えた。  田舎町における秩序はそれで保たれた。人々はその姿を見て満足した様子だった。  和馬を囲んで、しめやかな宴会が始まった。台所から様子を窺っていた女たちが、和馬のために酒を運んできた。新たな肴が供された。  由香里は和馬の背に隠れるようにして座り、人々から顔をそむけて床の一点を見つめていた。  裕次郎の病気の経過が報告された。町長選の経緯を今さらながら自慢げに語る者もあった。だが、会話はどれも長続きしなかった。  ぽかりと空いた寒々しい空洞のような沈黙の中、誰かが待っていたかのように由香里のことを訊ねた。  和馬は伏し目がちに杯を口に運ぶと、短く答えた。「女房です」  今、志保は和馬と並んで柩の前に座っている。由香里は先に床をとり、寝てしまった。人々は一人帰り、二人帰り、やっと全員、引き揚げて行って、柩の前には志保と和馬しか残っていない。  遺影の中で、裕次郎が笑っている。眉は薄いが、豪快な笑いである。その屈託のない笑顔を見上げたまま、志保は加地の妻が通夜の席に現れなかったことを考えている。工場の従業員が代わりにやって来て、焼香して行った。加地の妻は夏風邪をひいて熱を出し、寝込んでいるとのことである。  やっぱり、と思う。夫が話してくれた話は嘘ではない。かつて一度でも深い関係にあった男の通夜や葬儀には出席しにくいものである。自分が加地の妻の立場でも、理由をつけて欠席していただろう、と志保は思う。  志保は和馬と並んだまま、この男は嘘をついたのか、それともあの轢き逃げの話は本当だったのか、と考える。今となっては、嘘のようでもあり、本当のようでもある。どちらでもいいような気もするし、それでは腹の虫がおさまらないような気もする。  だが、わかっていることが一つある。加地は妻の情事を知らずにいた、ということである。だから、和馬の証拠湮滅を手伝ってくれたのである。それだけは確かなようである。  この世には、知る必要のないことが山ほどある。知ったら最後、自分の人生を変えざるを得なくなるような不愉快な出来事に何ひとつ直面しないまま、幸福に生を終えていく人もいる。裕次郎や加地のように。  隣の小部屋からは、時折、子ねずみが硬いものを齧る時のような小さな音がもれてくる。眠っている由香里の歯ぎしりの音である。  由香里がね、と和馬が言う。「……妊娠したんだ」  そう、と志保は言う。「おめでとう。お父さんが生きてらしたら、どんなに喜んだかしら」  あんな不器量な娘なのに、と志保は思う。和ちゃんには似合わない、笑っちゃうくらい、全然、似合わない。どんな子供が生まれるんだろう。醜く陰気な猿の子が生まれるのか。完全な美は時として、易々と醜に飲みこまれ、駆逐される……。 「あなたのことを忘れたことはない」和馬が低い声で言う。  志保は黙っている。その一言を聞けば、充分である。もう何もいらない。 「一緒に乗ってたのね」志保は前を向いたまま、静かに言う。  和馬が自分のほうを向いたのがわかる。志保は視線をそらさずに「由香里さんとよ」と言う。「あの晩、一緒にドライブしてたんでしょう? 加地さんのところには、由香里さんと一緒に行ったんでしょう? 由香里さんと別れられなくなったのも、そのせいよね」  あんなに醜い人なのに、という言葉をかろうじて避け、志保は続けた。「別れなくて賢明だったわ。おまけに結婚して子供も作って。和ちゃん、えらい。ほめてあげる」  和馬は志保に視線を張りつかせたまま、応えない。二階の窓の軒下で、風鈴が、ちり、と濁った中途半端な音をたてる。風が出てきた様子である。外を埋め尽くすコスモスの群落が、寄せては返す静かな漣《さざなみ》のように闇を仄白く染めている。  歯ぎしりの音が聞こえる。和馬は何も言わない。何が正しかったのか、何が嘘だったのか、何ひとつ、語ろうとしない。  だが、これでいい、と志保は思う。少なくとも、私が編み出した物語、私が辻褄を合わせた和馬の過去だけが真実なのであり、そう信じていなければ、この先、物事は何ひとつ、片づいていかないのだ、と。  そんなふうに改めて自分を納得させると、何かしら澄みわたったような気分に充たされた。志保は夫の遺影を見上げながら改めてさめざめと泣き始め、その泣き声がベランダの外の、闇に沈む桃色の花の群落の彼方に流れていくのを感じながら、ああいけない、和馬のために夫のパジャマを出しておかなくちゃ、と考えた。 [#改ページ]    ひるの幻 よるの夢  応接間で呼び鈴の音が響いた。ちりん、ちりん、ときっかり二回。少しも気ぜわしさのない、落ちつきはらった優雅な鳴らし方である。  廊下にスリッパの音をたてないよう注意しながら、できるだけ静かに、それでもなるべく急ぎ足で勢津子は応接間に行った。軽くノックしてから扉越しに耳をすませる。中から、うん、という阿久津の嗄《しやが》れた声がした。勢津子はそっと扉を開けた。  小一時間ほど前に訪ねて来た男性編集者が二人、阿久津を前にかしこまって座っている。出窓は開け放されていて、その向こうに九月の空が広がっているのが見える。夕暮れが近いせいか風がやみ、室内は少し蒸し暑い。  勢津子が出したコーヒーは、きれいに飲み干されていた。年のせいで、人と話をしていると口が乾くという阿久津のために、コーヒーと共にコップに注いだ冷たい水を三つ、用意した。その水も、あらかた空になっている。  勢津子は軽い後悔の念にかられた。呼ばれる前に、お代わりはいかがですか、と聞きに来るべきだったかもしれない。  勢津子相手に、阿久津が行儀作法を口にしたことは一度もなかった。立ち居振る舞いに関して、厳しい叱責を受けたこともない。だからこそ、勢津子は阿久津のために先回りして、どれほど些細なことでも阿久津が喜ぶようなことをしてやりたい、と思うのだった。  阿久津がゆっくり首をまわして勢津子のほうを向いた。男にしては小作りの顔の、三分の一を占めていると思われる大きな目が勢津子をとらえたが、視線を絡ませてきたのはほんの一瞬だった。まもなく阿久津は何も見なかったかのように、ゆるりと顔をそむけた。 「ビールをお出ししなさい。それと何か、つまみになるようなものを少し」  老いさらばえた痩せたからだには不釣り合いなほど、銀灰色の髪の毛はふさふさと豊かである。オールバックに撫でつけた髪の毛が少し乱れ、はらりとひと房、青白い頬にかかっているのは、いかにも文士らしいおもむきである。 「先生はいかがなさいますか」  勢津子が控えめに問いかけると、阿久津は、ああ、と言った。  その口調、顔の表情でだいたいのことはわかる。といっても、コーヒーの後で阿久津が飲むものは決まっている。到来物の梅でこしらえた自家製梅ジュースか、どろどろになるほど濃くいれた煎茶、もしくはめったにないことだが、温めた牛乳で作る砂糖抜きのココア……。 「では、冷たい梅ジュースをお持ちいたしましょうか」勢津子は聞いた。  阿久津はまた、ああ、と言い、勢津子のほうを見ずにうなずいた。  編集者たちが口々に、「先生、どうかおかまいなく」と言いながら中腰になった。「先生はお忙しいのですから、僕らがお邪魔するわけには……」  いいんだよ、と阿久津は腕組みをしながら、かすかに笑みを浮かべて遮った。「私のことならかまわない。ここしばらく、筆の進みが悪くてね。今日のところはもう仕事をする気はないから、ゆっくりしていったらいい」  勢津子は阿久津と客人に向かって深々と礼をし、「ただいますぐに、お持ちします」と言ってそっと部屋を出た。  その日の体調にもよるが、阿久津は人恋しいような気分にかられると、やって来た編集者にビールをすすめる。からだをこわして以来、阿久津自身は酒を禁じられているが、人が目の前で飲んでいても気にならないらしい。  アルコールが入ると編集者の緊張もとけ、座が賑わい始める。そうなると、夕食時までずるずると飲み続けることになり、勢津子は予定外の食事の準備に取りかからねばならなくなる。  阿久津の大切な客人に粗相があってはならない、と献立を考えるにも気を遣う。人数が多ければ材料が足りなくなって、大慌てで買物に走らねばならなくなることもある。客人が長居をすれば、勢津子自身の帰宅時間も大幅に遅れる。後片づけをし、ふと時計を見たら、最終電車に乗り遅れそうになっていたことも何度かある。  だが、そのことを勢津子が不満に思ったことは一度もなかった。勢津子にとって阿久津の家で働くこと、阿久津が執筆を続けていくために、影のようになって彼に仕えるということは、何にもまさる悦びだった。阿久津が汚した便所の掃除や、阿久津の汚れ物の洗濯をしている時でさえ、勢津子は自分が神聖なひとときを過ごしているのだ、と疑わなかった。  勢津子の生活は、阿久津を中心にまわっていた。そして、それ以上、望むものは何もなかった。  その夏、七十二の誕生日を迎えた阿久津一郎は、現代日本の文壇で特異な位置にある作家だった。  作風は、耽美、幻妖、異端、といった言葉がふさわしい。少数ながら、常に熱狂的ファンに支えられ、何作かは海外でも翻訳された。内外ともに評価が高いというのに、好んで書きたがる悪魔的なテーマのせいか、あるいは作品のそこかしこに顔を覗かせる、美しくも度を越した性的表現のせいか、権威ある文学賞からはことごとく無視され続けてきた。  にもかかわらず、阿久津はこれまで、再三にわたってジャーナリズムを賑わせた。彼に群がる女たちが引き起こした異様な事件が相次いだからである。  阿久津がまだ四十代だったころ、パーティー会場に乗りつけた車から彼が降りた途端、女性ファンの一人に駆け寄られ、いきなり果物ナイフで背中を刺される、という事件が起こった。阿久津と同世代だった加害者は、阿久津を刺して、自分も死ぬ気だった、天国で阿久津と一緒になるつもりだった、と供述した。  また、胆石の治療のために入院していた時、阿久津の病室に、深夜、ファンと称する若い女が侵入してきたこともあった。女は阿久津の見ている前で床に正座するなり、包丁で自分の手首を切り始めた。阿久津先生の病気は、私が血を流すことによって癒されるのだ、とわけのわからないことを口走っていた女は病院職員に助けられたが、その数日後、西伊豆の海で入水自殺をした。  折々、新聞などのインタビューで公言してきた通り、阿久津は独身主義を通してきた。文壇一もてる男、女たらしの作家と言われていた時期もあった。その分だけ、女性の出入りは盛んだったと聞いている。勢津子が知っているだけでも、劇団所属の美人女優との同棲、有名ヴァイオリニストとの恋や、夫をもつ女流歌人との噂など、枚挙にいとまがない。  老いてからはさすがにその種の噂は聞かなくなったが、阿久津の風貌には今もなお、女を惹きつけてやまない、魔力のようなものが感じられる。阿久津はただの老人ではなかった。阿久津には確かに、おき火のように静かに燃え続け、消え去った後でも執拗にぬくもりを残しそうな、男の性が感じられた。阿久津の作品を愛するあまり、阿久津自身に熱狂し、哀れな妄想狂になり果てる女が現れても、いっこうに不思議ではなかった。  阿久津は典型的な寡作作家だった。文芸誌の編集者が菓子折り片手に日参しても、雑誌には作品を発表しない。人から決められた締切りがあるというのを悉《ことごと》く嫌い、三年も四年も、時には十年近くの歳月をかけて一編の長大な小説を書き下ろす。  初版部数がせいぜい七千部ほどで、しかも版を重ねることが少ないとあれば、生活にも支障をきたすはずなのに、食べていくために仕事をしている様子は何ひとつ見られなかった。資産家だった阿久津の父親が、阿久津一郎に世田谷の広大な土地と屋敷、そして、一生、遊んで暮らせる財産を残したらしい、というのがもっぱらの噂だった。  どうしても外出しなければならない時、阿久津はバスや電車を使わずに、惜しげもなくハイヤーを呼んだ。着る物にはふだんあまり気を遣わない人だったが、ひとたび公の席に出ることが決まると、仕立て屋を呼びつけ、最高級の服地で背広やコートを作らせた。光熱費、食費にどれほど金がかかっているのか、確かめようともしない。勢津子に支払われる給金の額も、もったいないと思われるほど多かった。  生涯、生活の安定が保証されていることだけは事実のようで、だからこそ勢津子は、自分が阿久津の財産にたかっていると世間から誤解されるのを恐れていた。  夫も子もない、四十七の女である。長年の勤めを辞めて、資産家で有名な老作家の身のまわりの世話をし始めたとなれば、世間の口さがない人々は何を言い出すかわからない。阿久津の財産をねらって、阿久津に取り入り始めた中年のオールドミス、というわけだ。  たとえ一瞬であっても、そんなふうに見られるのは心外だった。第一、それは阿久津に対して失礼きわまりないことだ、と勢津子は思っていた。  勢津子が阿久津のもとで働く決心を固めたのは、金のため、生活のためなどではない、ただひとえに、阿久津の書くものを愛していたからだった。それ以外、何の理由もなかった。  勢津子が思った通り、その日、ビールでもてなされた編集者たちは興に乗り始めた様子だった。  小用の後で台所に立ち寄った阿久津は、紺色の暖簾を片手でうるさそうに押し上げるなり、「食事にしたいんだが」と言った。「簡単でいい。何か出してやってくれないか」 「ご用意できております」と勢津子はにこやかに言った。「ただいますぐ、お運びいたします」  小さくうなずき、廊下を歩きかけた阿久津は、途中でふと立ち止まって振り向いた。暖簾の切れ目の向こうに、大きな目が覗いて見えた。 「あなたに言うのを忘れていた。明後日の日曜、さよ子さんが来るよ」阿久津は言った。「婚約者と一緒だそうだ。さよ子さんはあなたにも会いたがっていたし、同席したらどうかね」  その日、昼過ぎにさよ子から電話があった。さよ子は勢津子の高校時代の友人だった。阿久津に電話を取り次ぐ前に、さよ子からおおかたの話は聞いていた。  だが、初めて知ったかのようにふるまって、勢津子は阿久津に向かって一礼をした。「ありがとうございます。よろこんで同席させていただきます」  阿久津は何か言いたげに見えた。廊下に佇んだまま、和服の襟元に気を取られているようなふりをしてから、彼はおもむろに低い声で聞いた。「あなたも会うのは初めてなのかね」 「は?」 「いや、さよ子さんの婚約者だよ」 「佐々木さんですか? はい、初めてです。私が先生のところで働くことが決まった直後でしたか、さよ子さんから紹介してもらう機会もあったのですが、何かと忙しくて、結局そのままに……」  そうか、と阿久津は言った。  次の質問を待って、勢津子はじっとしていた。だが、阿久津はそれ以上、何も聞かなかった。  不思議な、とりとめのない、ぼんやりとした微笑みが阿久津の顔に広がった。阿久津はそのまま何も言わず、応接間に戻って行った。  勢津子が十数年ぶりにさよ子と再会したのは、その年の初め、久しぶりに開かれた高校時代のクラス会の席上だった。  昔から色白だったが、四十も半ばを超え、からだのあちこちについた贅肉は、雑煮の中の崩れかけた餅を連想させた。四六時中、現実のことばかり考えているのか、目には生活じみた不満が古ぼけたシールのように張りついていた。仕草の一つ一つがけだるく、不満げだった。笑う時も、ちょっと唇をすぼめ、さもつまらなそうに目を細めてみせるだけだった。  にもかかわらず、さよ子はどこかしら艶めいて見えた。美人とは言えないまでも、もともと端整な顔立ちをしていたせいかもしれなかった。あっさりとした薄化粧や、あまり手入れがいいとは言いがたい、伸ばしただけの髪形もよく似合っていた。不思議だった。  そのさよ子が阿久津一郎のもとで働いている、と聞かされ、勢津子は心底、驚いた。もともとさよ子は、文学などというものとは無縁の女だった。阿久津一郎はおろか、谷崎潤一郎も川端康成も読んだことがないに違いないのに、と思うと可笑しかった。  長い髪の毛を首の後ろで束ねていたさよ子は、耳もとのほつれ毛をうるさそうにかき上げながら、だるそうな、うんざりしたような顔をして短く笑った。「だって、有名な作家だってこと、全然知らなかったのよ。知り合いの娘さんがね、以前、阿久津先生のところで働いてたんだけど、結婚して辞めることになったって聞いたのが七年くらい前になるかしら。お給料がすごくいいし、料理を作ったり、掃除したりすることがいやじゃなかったら、やってみませんか、なんて言われて、ついその気になっただけよ」  十年前、三十七になる年に、さよ子は離婚している。小学校に入学したばかりの娘を抱え、その後の生活苦は並大抵ではなかったらしい。阿久津のところで働き始めて丸七年。優遇されたおかげで、娘を大学に行かせてやれるだけの余裕もできた、とさよ子は言った。  阿久津の名を出されたことに勢いづいて、勢津子は自分が並々ならぬ阿久津一郎のファンであったことをさよ子に教えた。阿久津一郎の作品について、その文学史的な位置づけも含め、いかに阿久津が優れた作家であるか、逐一説明してやった。今度はさよ子が驚く番だった。 「そういえば、勢津子は昔から文学少女だったけど、それにしたってねえ。へえ、驚いた。そうなの、そうだったんだ」  勢津子のマンションにさよ子から電話がかかってきたのは、クラス会から一と月ほどたった或る晩のことである。  いきなり「実は私、再婚することになったのよ」と切り出され、勢津子は面食らった。何故、離婚したのかも詳しく聞いていないというのに、再婚と言われても、祝いの言葉を述べるのが精一杯である。  だが、さよ子は勢津子の言うことなど聞いていなかった。  再婚が決まって、阿久津の仕事を辞めることになった、阿久津にその旨、打ち明けたところ、たいそう困惑され、今さら一人にされると暮らしが不自由になる、なんとか都合をつけて仕事を続けてもらえないだろうか、と頼まれた、阿久津が気の毒になり、咄嗟《とつさ》に勢津子が先生の大ファンだったことを思い出して、後任の人で推薦したい人がいる、と口にしてしまったのだ、という。 「どう?」とさよ子は聞いた。「今のお勤めは辞めなくちゃいけなくなるけど、もしやってみる気があるんだったら、ともかく一度、先生に会ってみればいいと思って。勢津子は阿久津先生の大ファンなんだし、会っても損はないでしょう」  突然のことではあったが、それは勢津子にとって夢のような誘いだった。  就職先がなかなか決まらず、担当教授の口添えで、母校の女子大の事務局で働くことが決まったのは二十数年前。担当教授は、勢津子が社会人になった一ケ月後、酔って勢津子の部屋を訪ねて来るなり、半ば犯すようにして勢津子を抱いた。  父親ほど年齢の離れた教授は、週末ごとに部屋に通って来るようになった。愛人気取りなのが気にくわなかったが、つきあっていくうちに情がわいた。自分のからだが、次第に教授のからだになじんでいくのがわかった。  不自然な関係に嫌気がさして、別れたい、と口にしたことは何度かある。だが、笑って聞き流された。勢津子にこれといった友人も仲間もないことを教授は見抜いていた。両親は離婚し、兄とも疎遠で郷里の前橋にもめったに帰らない。勢津子の孤独が教授の武器だった。  そのうち、教授が病に倒れて入院し、事実上、会うことができなくなった。週末、誰も訪ねて来なくなったことには寂しさを覚えたが、そのうちそんなことも忘れていった。勢津子はすでに三十になっていた。  退院した教授に別れの手紙を書き、教授からも、それを受け入れる旨の返事が届いた。ひどく気取った文章で書かれた、薄気味悪いほどセンチメンタルな手紙だった。  教授と別れてから、男たちから誘われることが多くなった。そのうちの何人かとは、求められるままにからだの関係を持った。  結婚を口にされたら、考えてみてもいいような相手もいた。だが、時間がたつと、誰もが勢津子から離れていった。  何故そうなるのか、勢津子にはよくわかっていた。自分には華がない、と勢津子は思っていた。やみくもに人を惹き寄せてしまうような華がないのだ、と。  二つ年上の郷田とは、最寄りの駅近くにある鮨屋で知り合った。週末の夜、カウンターで一人で鮨をつまみ、ビールを飲んでいた勢津子を見かけて興味を持った様子だった。  その後、教授の代わりに、郷田が定期的に部屋を訪ねて来るようになった。薬局を経営する郷田には妻と二人の娘がいた。娘は生意気でうるさいし、親父を邪険にするけど、可愛いよ、僕はほんとのこと言うと、この世で一番、娘を愛してるんだ、嫁になんか絶対にやらないんだ……酒に酔うたびに、郷田は幸福そうにつぶやいた。  趣味も見つめているものも向かっているものも、何もかもが勢津子とは違っていた。勢津子の部屋にある書棚の本を見た時、郷田は「こんなもんを読んで、よく頭が痛くならないな」と言っただけだった。  ただ寂しいから関係を続けているに過ぎない、とわかっていた。とはいえ、別れ話を切り出すのも面倒で、いつの間にか郷田とは倦怠期の夫婦のようになってしまっている。  郷田と別れる潮時だ、と思ったのも、決心するきっかけになった。まだ遅くはない、今この瞬間、何もかも切り捨てれば、新しく生き直せるのではないか、と勢津子は思った。寂しさゆえに、やみくもに男の肌のぬくもりを求め、誇りを見失っていた自分から抜け出すチャンスをさよ子が与えてくれたのだった。  さよ子に連れられて、阿久津一郎に会いに行ったのがその年の三月である。履歴書を手渡し、二、三の簡単な質問を受けた。先生の作品はすべて読んでいます、と言うと、阿久津は「珍しい人もいるものだな」と言い、まんざらでもなさそうに微笑んだ。  想像していた以上に美しい老人だった。枯れ木のように乾いて見えるのに、そのまなざしには底知れない深みがあった。確固たる規律、秩序の中にありながら、何かのきっかけで途方もなく崩れていきそうな危うさ、脆《もろ》さも感じられた。勢津子は強く惹きつけられた。 「さよ子さんには本当に世話になってきた。そのさよ子さんの紹介とあれば、これ以上、聞くことは何もないでしょう。さよ子さんの代わりに是非、来ていただきたい」阿久津はその場で言った。  阿久津とさよ子はソファーに隣同士に座っていた。さよ子は、他人事と言わんばかりに退屈そうに自分の爪をこすったり、眺めたりしていた。阿久津の傍でそんなふうにしているさよ子は、なんだか阿久津の古女房のように見えた。  勢津子は大学に辞表を出し、郷田とも別れた。それまで住んでいた中目黒のマンションを引き払い、阿久津の家がある祖師ケ谷大蔵から電車で十数分の梅ケ丘に新しく部屋を借りた。  以来、半年間というもの、勢津子は阿久津だけを見て暮らしている。十一時過ぎに起床する阿久津のために、朝九時にはマンションを出て、途中で買物を済ませ、十時にはもう、阿久津の家の台所に立っている。帰りは夕方六時、と決まっていたが、その時間に仕事が片づいたためしはない。たいてい七時八時まで、家の中の仕事を続けている。  かかってくる電話の取り次ぎはもちろんのこと、阿久津のこまごまとした仕事のスケジュール管理も行う。古書店で本を探してきてほしい、と言われれば勇んで探しに行く。  やれと言われたことは、どんなことでもすべて、喜んで引き受けた。庭の草とりもすれば、町内会で決められているどぶ掃除もやり、時には訪ねてきた出版社のお偉方を相手に、乞われて酒の酌をすることもある。  阿久津の前で、勢津子はあらゆる自尊心をかなぐり捨てることができた。勢津子は阿久津の秘書であり、阿久津専属の家政婦であり、そして、阿久津の忠実なしもべであった。  日曜日、午後遅くなってから、さよ子が再婚相手の佐々木と共に阿久津を訪ねて来た。  せっかくだから、と阿久津が勢津子に命じて用意させた和室は、阿久津の家の中でも最上等の部屋だった。檜の床柱に檜の床の間。黒檀の座卓以外、家具は一つもなく、出版社のお偉方や高名な作家が訪ねて来た時以外はめったに使うことのない部屋である。  少し遅れて部屋に現れた阿久津は、やあ、いらっしゃい、と言いながらさよ子をちらりと見、次いで、佐々木に目を走らせた。値踏みするような視線ではなかった。それは、ただ単に、窓の外で揺れている木々の梢を見る時のような視線だった。  佐々木が畳の上に両手をついて、挨拶を始めようとした。阿久津は微笑みながらそれを制し、堅苦しい挨拶は抜きにしましょう、と静かに言った。  佐々木は公務員で、さよ子よりも三つ年下である。病死した前妻との間に子供はおらず、さよ子の知人が二人を引き合わせて、互いに意気投合したのだという。  平和な家庭生活だけを望むなら、ほとんどの女はこの種の男を選ぶだろう、と勢津子は思った。背丈の足りないずんぐりとした丸い身体つき、いつも微笑んでいるような優しげな目、生命力のありそうな肉厚の唇、大きくあぐらをかいた鼻……美男とは程遠く、程遠いからこそ、佐々木は家庭的で、安全な感じがした。  あたりさわりのない世間話が、長々と続けられた。座卓の上のコーヒーが空になると、阿久津は、煎茶を出しなさい、と勢津子に言った。言われた通り、用意しておいた茶菓子と共に煎茶を部屋まで運んだ時、阿久津はふいに思いついたかのように、「どうせなら鮨でもとるか」と言いだした。  さよ子と佐々木が、「おかまいなく。そろそろ失礼しますから」と言っても、阿久津は聞かなかった。和服のたもとに両手をさしこんで腕を組み、作りものめいた笑みを浮かべながら、勢津子に特上握りを四人前、注文するようにと言った。  これといった理由もなしに、勢津子は阿久津の不機嫌を感じとった。表情にも態度にもどこにも現れてはいなかったが、阿久津はいつもの阿久津ではない、隠しもった感情の刺をもてあましている青年のように見えた。  その日のさよ子は、クリーム色のフレアースカートに白いブラウス、薄茶色の半袖ニットのカーディガン、という、お世辞にも趣味がいいとは言えない服装だった。髪の毛だけは後れ毛が目立たないよう、きちんとアップに結い上げてはいたが、相変わらずの薄化粧で、忙しくてそんな暇もないのか、眉ひとつ整えていない。再婚が決まったというのに、生活に疲れたような、人生に夢など見たこともないと言いたげな、不満そうな顔つきも変わっていなかった。  にもかかわらず、さよ子は相変わらず艶めかしかった。早く帰って晩御飯の支度をしなくちゃいけないのに、とでも思っているかのように、何の話をしていても、どこか上の空の様子である。形ばかり口をすぼめて笑ってみせながら、視線をはずすようにして、すぐに目を伏せてしまう。そこには、疲れ果て、やつれ果てた女の、肌にこびりついた汚れのような色香が感じられた。  注文した鮨が届き、四人そろって座卓に向かって食事をしている時も、食後のお茶を飲んでいる時も、阿久津はあまり自分からは喋ろうとしなかった。時折、思い出したように、結婚式はどうするんだね、とか、さよ子さんの娘さんは幾つになったんだね、などと質問を発したが、さよ子の返事を聞いた途端、もうその話題には興味がなくなったと言わんばかりに、つまらなそうに口を閉ざした。  座が静まりかえってしまうのがいたたまれず、仕方なく勢津子は、さよ子と自分の高校時代の思い出話を披露した。佐々木は楽しそうに耳を傾け、さよ子も「そうね。そんなこともあったわね」と言ってくれたが、阿久津だけが黙っていた。  その日、再婚するさよ子に、阿久津が初めてはなむけらしき言葉を発したのは、さよ子と佐々木がいとまを告げた時である。  玄関先まで二人を見送りに出てきた阿久津は、深々と頭を下げたさよ子に向かい、「まあ、元気でやりなさい」と言った。  開け放した玄関扉の向こうの草むらの陰で、しきりと秋の虫が鳴いていた。  阿久津はその虫の音にとけいるような静かな声で、「ご主人も一緒にいることだし、いい機会だから教えてあげよう」と言った。「これまで黙っていたが、私は作品の中で、さよ子さんを一度だけモデルに使わせてもらったことがある」  さよ子が「あら、いやだ」と言って、片手を頬にあてがった。わずかに顔が赤くなった。 「すごいや」と佐々木が言った。「光栄じゃないか。阿久津先生の小説のモデルにしてもらったなんて。先生、教えてください。何ていうタイトルの小説ですか。すぐに買って、二人で読みます」  ふふ、と阿久津は短く笑い、「それは教えないよ」と言った。「喜んでもらえないような話かもしれないんだしね。以前にも一度あったんだ。或る女性に、きみのことをモデルにした、と教えたものだから、興味をもった彼女はすぐにその作品を読んだ。喜ぶとばかり思ってたんだが、彼女は読んですぐに怒鳴りこんできたよ。こんなふうに思われてたのか、心外だ、ってね。それ以来、懲りたんだ。モデルにした女性には、どの作品で使ったかは言わないことにしている」  そうだろうなあ、いくらさよ子さんでも、先生の小説のヒロインにはなれないだろうしなあ、と佐々木が言った。「きっと何か動物の役だったのかもしれないよ。アマガエルとか、ヤギとか、ロバとか……。いや、ひょっとして……丸々太ったコブタ?」  佐々木の冗談に、さよ子が顔をしかめ、「いやあだ、やめてよ」と肘鉄を食らわせた。  阿久津は珍しく声をあげて笑った。笑い声は、闇の中で鳴く梟《ふくろう》の鳴き声に似ていた。  その晩、遅くなってマンションに戻った勢津子は、書棚から思いつくままに阿久津の作品を取り出してみた。 『涜神《とくしん》』というタイトルの長編を手にした時、はたと勢津子は膝を打った。やっぱりこれだ、この中のあのシーンだ。  昨年刊行されたばかりの、阿久津の最新刊だった。さよ子が阿久津のもとで働くようになったのは七年前だから、計算は合う。阿久津は『涜神』を書き上げるのに三年の月日を費やしていた。  海の見える高台に建った古い屋敷で、猫脚つきの優雅なホーローの浴槽に、主人公の中年男が湯ではない、薔薇の花びらを充たし、そこに女を誘いこんで交合するシーンがある。真紅の薔薇の花びらが、汗で濡れた肌にまとわりつき、喘ぎながら腰をのけぞらせる男女の向こうに、夕暮れの海が広がっている。海には淡い冬の西日がきらめいている。  さよ子をモデルにして先生はこれを書いたのだ、と勢津子は確信した。花びらに埋もれて喘ぎ声をあげ続ける作中の女は、年齢こそ二十九歳になってはいたが、どう考えてもさよ子その人だった。さよ子のようにけだるく、さよ子のように退屈そうな表情をし、にもかかわらず、どこか物欲しげである。いやだと言いつつ、男に触れられるといやがる素振りも見せずに、自分から着ているものを脱いでいく。そんな女である。  ベッドの中で『涜神』を読みふけりながら、いつしか勢津子は寝入ってしまった。深い眠りのさなかで夢を見た。  勢津子と郷田とが、薔薇の花びらを充たした浴槽で交合している。郷田は何度も何度も勢津子を抱く。もういやよ、もうたくさん、もう疲れた、と口にしつつ、全身に薔薇の花びらを張りつかせながら、勢津子は郷田を受け入れる。室内には窓がなく、ひどく暑い。  息苦しさが増し、郷田の身体をおしのけようとするのだが、そうするうちに波のような快感が新たに襲ってくる。勢津子はまた、みだらな喘ぎ声をあげている。  ふと横を見ると、そこに阿久津の顔がある。阿久津が浴槽の傍に佇んで、両腕を組み、じっと勢津子を見ている。  先生、と言おうとして、唇が塞がれる。郷田の唇である。郷田に口を吸われながら、勢津子は目だけ動かして阿久津を見上げる。阿久津は無表情に勢津子を見おろしている。郷田に烈しく突かれているので、勢津子の首は、リズミカルに、がくんがくん、と揺れ続ける。  あまりの快感に意識が遠のきかける。だが勢津子はこらえ、目を開けている。  いっそう烈しくなる郷田の動きに伴って、喘ぎ声が高まる。目が潤む。勢津子は阿久津に向かって、途切れ途切れの声をあげる。先生、先生、今行きます、すぐに先生のおそばに行きます、私はこんなこと、していたくないのです……。  阿久津はうっそりと笑って言った。「嘘をつかなくてもいい」  愕然とした時、目が覚めた。全身にびっしょり汗をかいていた。目尻には涙の跡があった。午前三時だった。  十月に入ってまもない日曜日、勢津子はさよ子から、夕食でも食べに来ないか、と誘われた。  さよ子はすでに佐々木と入籍をすませ、娘と三人、杉並にある小ぢんまりしたマンションに暮らしていた。その日、佐々木は、急病で倒れた昔の上司の病気見舞いに福島まで行っており、帰るのは遅くなるとのことだった。  手みやげにケーキと果物を買い、日暮れた頃にマンションを訪ねた。さよ子は花柄のエプロンで手をふきふき、勢津子を出迎えた。  顔に化粧の跡はなく、ひっつめた頭の生え際からは何本ものほつれ毛が顔を被《おお》っている。蠅でも追い払うように、ほつれ毛を手で払っては、さあ、入ってよ、狭いでしょ、公務員の給料で買えるマンションなんて、こんなもんよ、などと現実的なことを口にする。絵に描いたような中年主婦、といった風情だったが、さよ子の笑みは庶民的で、幸福そうに見えた。  娘を紹介しようと思ってたのに、なんだか友達と約束があるとかで、出てっちゃって……とさよ子は言った。「はっきり言わないけど、男友達ができたらしいの。夜中にしくしく泣いてたり、外に電話をかけに行ったり、そうかと思うと、突然、馬鹿みたいににやにやしたり。さかりがついて困ったもんだわ。今日は鰻重《うなじゆう》を頼んであるのよ。駅前に新しくできた鰻屋、安くておいしいの」  出前で頼んでおいたらしい鰻重が届けられると、さよ子はリビングルームに続く小さな和室に勢津子を呼び、座卓に手作りの酒の肴を何品か並べ、ぬるく燗をつけた日本酒を運んで来た。  飲むでしょ、と聞かれ、もちろん、と勢津子は答えた。マンションは通りに面して建っていたが、窓を閉めきると外の車の音は遠のき、四角い掛け時計の、秒針が刻む音しか聞こえなくなった。  高校時代の思い出話に花を咲かせながら、鰻重をつつき、肴をつつき、酒を酌み交わした。酒にはあまり強くないのか、さよ子はすぐに上気したような顔になった。  暑くなっちゃった、と言ってエプロンと共に着ていた薄手のカーディガンを脱ぎ捨てると、さよ子は座卓に頬づえをつきながら、問わず語りに自分の離婚の話を始めた。  別れた夫とは、ふつうのセックスをしたことが一度もないのよ……さよ子は酔ったのか、ひどくあけすけな口調でそう言った。セックスのたびに両手を縛られ、身体中に紐をぐるぐる巻きつけられ、痛い、と本気で声をあげたり、泣きだしたりすると、かえって相手は興奮したのだという。 「馬鹿みたいよ。よくあんなこと、耐えられたと思って」 「それが別れた原因なの?」 「それだけじゃないけどね。でも、一つの原因にはなってたかもしれない。そういうことするのが好きな女の人もいるらしいけど、私はだめ。うんざりよ。私はね、どっちかって言うと、Sだわ、きっと」 「S?」 「サドマゾのサドのほうよ。されるのはあんまり好きじゃない。するほうが好き」  勢津子は笑った。「佐々木さんのこと、夜な夜な鞭で叩いてるわけ?」 「まさか。そんなんじゃないのよ。だから、サドっていうのとも違うんだろうけど……」そう言って、さよ子は酔いがまわった目を細めながら、座卓の上で萩焼の徳利をもてあそんだ。「変な話だけど、私ね、男の人にしてあげるのが好きなの。自分が何かされるのはうっとうしい。こんなふうにしてくれないか、って男の人に頼まれて、言われた通りにしてあげて、喜ばれると嬉しくなる。どっちかっていうと、そのほうが興奮するの。変なの、昔っから。勢津子はそんなことない?」  考えるまでもなかった。勢津子は首を横に振った。  あはっ、とさよ子は笑い声ともしゃっくりともつかぬ乾いた声をたてた。「私、先生の射精を手伝ってあげたこともあるんだから」  勢津子はさよ子を見た。さよ子はだるそうに座卓のへりに身体を預けながら、空になった萩焼の徳利をごろごろと座卓の上に転がしている。掛け時計の秒針の音が聞こえる。キッチンの流しの水道の蛇口から、ぽとりと水が滴る音がする。  勢津子は冷静さを装いながら聞いた。「先生、って、阿久津先生のこと?」  さよ子はうなずいた。「なんだか気の毒でね。昔は大勢の女の人に囲まれてたらしいけど、結婚もしなかったでしょ。今は訪ねて来る人って言えば、息子や孫みたいに若い男の編集者ばっかりじゃない。先生も寂しいんだろうな、って思って……。それで……」 「どうやって」と言いかけ、勢津子はごくりと唾を飲んだ。「手伝った、って、どういうこと?」 「してあげたのよ、手で」 「手?」 「他に何を使うの」さよ子は笑いをふくんだ声で聞き返した。「まさかあんなおじいさんと、私、セックスなんかしないわよ。してほしい、って言われて、してあげたくなったの。それだけ」 「してほしい、って、阿久津先生が? そう言ったの?」 「言ったのよ。夏だったわ。ものすごい夕立になって、まだ五時くらいだったのに外が真っ暗になっちゃってね。雷もすごくて、開けっ放しにしてた窓から雨が吹きこんできたから、私、慌てて先生の寝室に行ったのよ。先生はその時、お昼寝中でね、雨が部屋に吹きこんだら大変だと思って。そしたらね、先生は布団の中で目を開けて、私のことをじっと見てるの。どうなさったんですか、って聞いたらね、こっちに来てほしい、って。何か様子が変だったわ。でも、言われた通りに布団のそばに行ったの。そしたら先生が、悪いがあなたにしてもらいたいことがある、って言ったのよ」 「すぐにその意味がわかったの?」  さよ子はだるそうにうなずいた。「なんとなくね。そういうことって、わかるもんじゃない? 先生はね、私に向かって手を伸ばしてきて、私がその手を握ってあげたの。なんか、お母さんになってあげたような気分だった」  勢津子が黙っていると、さよ子は、ふふ、と小さく笑った。「あのころで、先生はもう七十になってたかな。おかしいったらないの。私、男の人って、そんな年になったら射精もしないんじゃないか、って思ってたから。でもね、ちゃんとするのよ。先生は病気もしたし、ペニスもぐんにゃりしてるんだけど、ちゃんとね、出てくるの。あんまり白くなかったな。半透明みたいな感じだった。気持ちがいい、ありがとう、って言って、先生、目を閉じて深いため息をついてたけど……でも、しばらくたったら、怒ったみたいな声で、もうあっちに行きなさい、って。恥ずかしかったのね、きっと」  自分が口にしていることにさすがに気まずさを覚えたのか、さよ子は上目遣いに勢津子を見た。「これ、秘密の話よ。誰にも言っちゃだめよ。主人に知られたら、大騒ぎになるし、先生にだって立場ってもんがあるだろうし」  わかってる、と勢津子は掠《かす》れた声で言った。「誰にも言わないわ」  沈黙が始まった。妙な話を打ち明けてしまったものだから、さよ子は後悔しているのかもしれない、と勢津子は思った。だが、勢津子が見る限り、さよ子は平然としていた。ただ酔って、上半身をふらつかせているだけだった。  阿久津が書いた『涜神』という長編小説の中で、さよ子をモデルにしたとおぼしき若い娘が登場するシーンが思い出された。阿久津がさよ子を思う時の、性的妄想が想像できた。嫉妬に似た痛みが、勢津子の胸を刺した。 「阿久津先生は、さよ子のこと、好きだったのね」 「好きとか何とかっていうこととは違うわよ。誰でもよかったのよ。相手が私じゃなくても、女なら誰でも。勢津子は知らないんだろうけど、あの先生、根は助平なのよ。まあ、男はみんなおんなじなんだろうけど」  さよ子はそう言うなり、ふいに徳利を投げ出して、頭の後ろに両手を組むなり、そのまま畳の上に仰向けになった。 「よく飲んだわ。ああ、いい気持ち。酔っちゃった」  着ていた丸首の紺色のTシャツの下に、さよ子は何もつけていないようだった。こんもりと盛り上がった大きな乳房と乳首が浮き上がって見えた。  この人はもう、阿久津の射精を手伝ったことなど、本当は忘れているのかもしれない、と勢津子は思った。さよ子にとって、それは忌まわしい記憶ではないのである。かといって心躍る記憶でもない。単なる日常の些細な出来事として、塵あくたのように風化されていく記憶に過ぎないのである。  そう思うと、胸を刺す痛みは次第に消えていき、あとには老いた阿久津に対する、迸《ほとばし》るような思慕の情だけが残された。  まさか恋ではない、と思う。これは深い尊敬の念からくる敬愛なのだ、と考える。そう考えながら、秋が深まるにつれて、勢津子の阿久津に対する思いもまた深まっていった。  阿久津の仕草、視線のひとつひとつが気になった。阿久津が今、どこを見たか、どんな目で見たのか、いちいち確認せずにはいられない。阿久津が勢津子を見る時の目はたいてい素っ気なかった。それはくだらない赤の他人、すれ違っていくだけの歩行者を見る時の目と同じだった。  だがごくたまに、阿久津は別の目で勢津子を見ることがあった。憂いと慕わしさの入り雑《ま》じったような、意味ありげな目……。  勢津子はそんな時、あえて何も口にしない。「何か御用がおありですか」と聞きもしなければ、「は?」と問い返すこともしない。まして、気持ちが通い合った恋人同士のような、親しみのこもった視線を返すことなどできるはずもない。ただ黙って、胸の詰まるような感動を覚えながら阿久津の次の言動を待つだけである。  だが、阿久津はたいてい、無言のまま目をそらせてしまう。そして勢津子は、その後何時間もの長い間、あの視線はどういう意味だったのだろう、何を言わんとしていたのだろう、ただの錯覚に過ぎなかったのだろうか、などと考え、永遠に答えの出ない問いの中に身を委ねて、ひそかな夢想にふけるのだった。  さよ子から聞いた話は、日に幾度となく思い出した。思い出すたびに、思い出してはいけないことだと厳しく自分を叱責するのだが、どうしようもなかった。  阿久津の布団のシーツを取り替える時など、ふと、阿久津がそこに仰向けに寝て、夕立の烈しい雨の音を聞きながら、性的夢想にふけっている様を想像した。阿久津から生活上の伝達事項……例えば、今日の夕方は外出するから靴を磨いておくように、とか、少し胃の具合が悪いので、明日の食事はおかゆにしてもらいたい、などということ……を告げられる際、自分を見つめるその大きな目がうるみ、その色の悪い唇から嗚咽《おえつ》のような小さな喘ぎ声がもれ、疲れ果てた声が「ありがとう」とつぶやく様を想像して息苦しくなった。  幾度となく夢も見た。  夢の中で、勢津子は阿久津の寝室に座っている。外は夕立でもなければ、夜でもない。かといって明るいわけでもなく、あたりは奇妙な静けさと仄暗さに包まれている。  寝巻を着た阿久津は布団に仰向けになって眠っている。羽毛の掛け布団が阿久津の下半身を被っている。寝巻の胸元は寝乱れて、痩せてつやのない、弾力のなさそうな肌がのぞいて見える。  ぴくりとも動かないので、死んでいるのか、と心配になり、そっと寝顔を覗きこむと、阿久津はその瞬間を待っていたかのように目を開ける。阿久津の目には涙が浮かんでいる。  どうなさったのです、と勢津子は聞く。聞きながら、手を布団の中に這わせる。ひどくいけないことをしているような気持ちになる。神をも恐れぬ冒涜的なことをしている、とも思う。だが、阿久津は拒まない。涙をためた目を天井に向け、じっとしている。やがて訪れる悦びを待っているようでもある。だから勢津子も手を止めない。  だが、布団の中をいくらまさぐっても、指先に阿久津の性器は触れない。触れるのは、阿久津が着ている糊のきいた寝巻ばかりで、おかしなことに阿久津の足も腰も、布団の中に見つけることはできない。  にもかかわらず、阿久津の口から「ああ」というかすかなため息がもれる。「あなたは何故、こんなことを……」 「お慕いしているからです」と勢津子は言う。「好きでした。先生のことがずっと前から好きでした」  言ったとたん、指先に生温かく湿ったものが触れる。それはやわらかくもなく、硬くもない、実体の定かではない小さなゴム人形のように感じられる。  覚えのある性的な衝撃が、静かに勢津子をつらぬく。まもなくそれは、どういうわけか沈みこむような悲しみに変わっていく。阿久津が「ああ」と言う。阿久津の目から涙がこぼれる……。  目を覚ますのは決まってその時である。覚めてみれば、あられもない夢を、と恥じ、いたたまれない気持ちになる。  だが、それでも勢津子は闇の中に目をこらす。そして自分が見たその夢をこれからの生きるよすがにしていこう、などと密かに思うのだった。  来客の数も変わらないし、阿久津が外出する頻度も変わらず、まして変わったことが起こるわけでもなかった。阿久津は以前と変わりのない生活をし、勢津子も表向き、何ひとつ変化を気取られないよう注意しながら、毎日が以前と同じように過ぎていった。  広い家の中に、阿久津と二人きりでいる、という時間が、勢津子のもっとも好きな時間だった。阿久津は書斎にこもりきりになって、手洗いに行く時以外、出て来ないが、時折かすかに聞こえてくる咳の音や、厚手の本をどさりと机の上に置く音、書きあぐねた時の阿久津の癖の、室内をゆっくりと歩きまわる音などを勢津子が聞き逃すことはなかった。  阿久津が風呂場で湯を使う音。洗面所のヘアブラシにからみついている数本の白髪。編集者と話をしている時の、阿久津の声、美しい日本語の一つ一つ。食後、縁側の籐椅子にくつろぎ、新聞をめくる阿久津の乾いた細い指。  それらすべてが勢津子にとってはいとおしかった。たとえ阿久津が自分を振り返ってくれずとも、そうした阿久津の気配に囲まれて暮らしていければそれで充分だ、と思えるほどだった。  その年の暮れ、クリスマスの翌晩、古くからつきあいのある作家に誘われて、阿久津は赤坂まで出かけて行った。少し遅くなるだろうから、早めに引きあげてくれてかまわない、と言われていたのだが、どうしてもその気になれず、勢津子は阿久津の帰りを待っていた。  夜十時過ぎ、タクシーで家の前まで乗りつけた阿久津は、まだ帰らずにいた勢津子を見ても何も言わなかった。勢津子も何も言わず、当たり前のようにしてコートを受け取り、和室の炬燵《こたつ》に入った阿久津に、当たり前のようにして盆に載せた煎茶を運んだ。  勢津子が阿久津作品の熱心なファンで、これまでの作品はすべて読んでいることを忘れていたわけではないのだろうが、阿久津が勢津子を前にして、自分の小説の話をすることはなかった。勢津子のほうも心得ていて、何か事務的な必要性が出てきた時以外、阿久津に向かって彼の小説のタイトルを口にすることすらしなかった。何か監視されているような、いやな気持ちになるといけない、と思い、阿久津の家で彼の小説を手にとって眺めることもなかった。  だが、その晩、阿久津はくつろいで炬燵に足をすべらせるなり、部屋を出て行こうとした勢津子に声をかけた。「ちょっとここに入りなさい」  は、と勢津子は言って振り返った。阿久津は炬燵の上を指さし、ここ、ともう一度言った。  どぎまぎする気持ちをおさえ、勢津子は「よろしいのでしょうか」と聞き返した。阿久津は答えなかった。  阿久津は、聞かずもがなのことを聞かれるのを何よりも嫌っていた。炬燵に入りなさい、と言われて、よろしいのでしょうか、と聞き返すのはわざとらしかったし、かえって物欲しげで、たしなみを欠いている気もした。  そんなことを慌ただしく考えているうちに、顔が赤くなってきた。勢津子は意を決して、「それでは失礼します」と言いながら、彼とさしむかいになるように腰をおろした。  阿久津は煎茶をすすると、しばらく黙っていた。冷えこむ夜だった。どこかで犬が吠えた。 「あなたは」と阿久津はおもむろに言った。「私の作品をだいたい読んでいる、と言ったね」 「はい。全部読んでいます」 「だったら、『涜神』というのも読んだはずだね」  はあ、と勢津子は言い、どうしていきなり、『涜神』の話などするのだろう、何があったのか、と訝りながらも、小声で「読ませていただきました」とつけ加えた。 「ひとつ聞きたいのだが、あの作品は女性の読者に嫌われる種類の作品だろうか。女性の生理的嫌悪を誘う作品だろうか」  即座に意味がつかみかねた。勢津子が瞬きを繰り返していると、阿久津はふいに、阿久津にふさわしくない歪んだ薄気味悪い笑みを浮かべ、その晩、会ってきた作家の名前を口にした。 「やつがね、そう言うのだよ。女性のあなたを前にして言うのも何だが、私はもともと、女性読者を想定して作品を書いたことなど一度もない。女性という種族が、読者として特別なものだと思ったこともないからね。読者は読者だし、彼らの性別など考えたこともないのだよ」  女の読者の一人として、正直な感想を求められているのだ、とわかった。勢津子はおもむろに口を開いた。「先生のお作品はすべて好きですが、中でも『涜神』は素晴らしいと思います。何度読んだかわかりません。読むたびに感動が新たになります。とても官能的できれいな物語だと思います。ですから……あの本を読んで、女性読者が嫌悪感を覚えるなどということが私にはちょっと理解できません」  もっと褒めたい、もっと感動を表現したい、もっともっと阿久津がいかに偉大な作家であるか、語りたい、と思ったが、勢津子はそれだけを言うのが精一杯だった。  阿久津はまた煎茶をすすった。湯飲みを炬燵の上に置くと、湯飲みから手を放さぬまま、阿久津の目がちらと勢津子を見た。  疲れている様子で、目のまわりが落ちくぼみ、いっそう老けた印象ではあったが、阿久津のそのまなざしの深さは勢津子の胸にしみた。 「ありがとう」と阿久津は言った。低い、聞き取れないほど小さな声だった。「こんな時間まで残ってもらって悪かった。もう遅いし、駅まで歩くのは大変だろう。タクシーを呼んであげるから、それで帰りなさい」  断る間もなく、阿久津は立ち上がり、電話機の前まで行って自らタクシー会社に電話をした。  帰り支度をすませた勢津子が、戸締りをしている間にタクシーがやって来た。玄関先で靴をはいていると、背後に阿久津の気配があった。 「寒いですから、どうかお部屋のほうに」  勢津子がそう言うと、阿久津は「いや」と言った。  視線が勢津子にまとわりついた。勇気をふるって、勢津子はその視線をまっすぐに受け止めた。  阿久津は「気をつけて」と言った。「気をつけて帰りなさい」  もったいない言葉だ、と思った。ありがとうございます、と勢津子は頭を下げた。  涙がにじみ始めたので、顔をあげることができなかった。うつむいたまま玄関の外に出ると、濡れた睫毛に冬の夜風がしみわたった。  阿久津は、さよ子が働いていた時、年末年始には一週間の休みを与えていた。それにならって、この際だからと十日やそこらの休みをまとめてとることもできたのだが、もとより勢津子にその気はなかった。たとえ一日でも、阿久津から離れていることはできそうになく、年末年始の特別な時期だからこそ、阿久津なしの生活は考えられなかった。  休みはとらなくて結構です、どうせ独り身ですし、お正月はお客様の多い先生のお宅で働かせていただいたほうが賑やかで楽しいですから……勢津子がそう言うと、阿久津は「そうか」とうなずいて、かすかに笑みを浮かべた。その笑みには湿りけのようなものが感じられ、勢津子は元気づけられた。  元日の朝、早く起きて身支度を整えた勢津子は、ふと思いたって箪笥の奥から晴れ着を出した。ただの手伝いの人間には分不相応かもしれないが、元日なのだから晴れ着姿で阿久津に新年の挨拶をしても咎められはしないだろう、と思った。  三十代の初めに作った付けさげは、光沢のある白地に淡い桃色の模様が入ったものだった。年齢を考えれば度を越して華美に装うべきではないと考え、くすんだ淡い鼠色の帯をしめて地味にまとめた。  何ケ月も美容院に行っておらず、中途半端な長さの髪の毛は、取れかかったパーマのせいか、結い上げるのに時間がかかった。思いがけずマンションを出るのが遅くなり、勢津子が大慌てで電車に飛び乗って阿久津の家に着いた頃、早くも玄関先には来客の脱いだ黒い革靴が二足、並んでいた。 「遅くなって申し訳ございません。ただいますぐにお酒のご用意をいたします」  応接間の扉越しに勢津子が声をかけると、「すみません。勝手に台所で酒の燗をつけさせてもらいました」と言う若い男の声が返ってきた。年末に挨拶に来ると言っておきながら、風邪をひいて来られなくなった編集者の声だった。  廊下をすべるようにして台所に行き、持って来た割烹着をつけた。前日に作っておいたおせち料理を冷蔵庫から取り出そうとして、何か気配のようなものを感じ、勢津子は後ろを振り返った。  阿久津が台所の入口に立ち、勢津子を見ていた。あ、と勢津子は声をあげた。 「久しぶりに着物など着たものですから、手間がかかってしまって」勢津子は形ばかり笑ってみせた。「お客様に間に合わず、本当にすみませんでした」  うむ、と阿久津は言った。年の暮れに仕立て屋を呼んで新調した和服を着て、真新しい帯をしめている。顔色はよく、不機嫌そうには見えなかったが、何を考えているのかわからなかった。  勢津子はどぎまぎしながら、姿勢を正して頭を下げた。「先生、新年あけましておめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます」  阿久津の口から、再び「うむ」という声がもれた。  視線が勢津子にまとわりついた。なめまわすような視線で、阿久津がそんな目で勢津子を見るのは初めてのことだった。  勢津子は黙って立っていた。ひどく緊張しているというのに、魅せられたかのようにして、心臓が静かに鼓動を繰り返しているのが不思議だった。 「脱いでみなさい」 「は?」 「割烹着なんかつけていると、着物の柄がわからんじゃないか」  阿久津が何を望んでいるのか、知った途端、勢津子は震えだした。悦びと期待と、わずかの不安が混ざったような震えだった。  指先が震えているのを悟られないようごまかしながら、割烹着を脱ぎ、軽く畳んでガス台の端に載せた。阿久津は表情を変えずに勢津子を見ていた。時間が流れた。阿久津の大きな目が、じろじろと情け容赦なく勢津子を見つめた。  あの、と勢津子はおずおずと言った。「もうよろしいでしょうか。おせちをお出ししなくてはいけないので」  阿久津は黙ったままうなずいた。義歯のせいで少したるんだ感じのする唇から、その時、ため息のようなものがもれた。 「今日のあなたはきれいだ」  思いがけず顔が赤らんだ。赤らんだ途端、身体の芯がとろけそうになった。阿久津の執拗な視線は、割烹着ばかりではない、勢津子の着ていた晴れ着を脱がせ、肌襦袢をも脱がせていた。  先生、と勢津子は声に出した。胸が熱くなった。立っていられなくなった。  だが阿久津は、自分の発した言葉を烈しく後悔するかのように、ふいに憮然とした顔を見せた。そして「ビールも一緒に持ってきなさい」と言うなり、くるりと踵《きびす》を返してしまった。  それから二週間ほどたった或る日のこと。阿久津は勢津子が信じられないことを口にした。  翌日の晩、昔から懇意にしている出版社の社長が、新年の挨拶を兼ねて阿久津を食事に招待してくれることになっていた。その食事会にあなたも同行するように、というのである。 「私がですか」と、またしても聞かずもがなの質問をし、勢津子は慌てて言い直した。「私は先生の身の回りのお世話をしているだけの人間ですから、そんな晴れがましい御席はとても……。お誘いいただいて心から嬉しいのですが、そのようなお気遣いはなにとぞ……」  度を越した勢津子の謙遜をうっとうしいと思ったのか、阿久津は少し怒ったように「何か予定があるなら別だが、そうでないのなら一緒に来なさい」と言った。「先方にもそう言ってある。あなたは確かにうちの手伝いかもしれないが、同時に私の秘書でもあるのだからね。そのへんのことは自覚してもらわんと困る」  叱られているのだろうか、と勢津子は思った。本当は行きたいのに、先生と共にどこまでも、地の果てまで行きたいのに……そう思うと、我知らず涙があふれた。 「何故泣いたりするのだ」阿久津がいっそう怒ったような声で聞いた。  申し訳ありません、と勢津子は言い、即座にエプロンの裾で顔を拭いた。「お誘いいただいて、あまりにも嬉しくて。ありがとうございます。わかりました。明晩は喜んで先生のお供をさせていただきます」  わかればよろしい、と阿久津は低く吐き捨てるように言い、じろりと勢津子を見た。  翌日の晩、勢津子は阿久津に同行し、銀座にある小料理屋に行った。  何を着ていけばいいのだろう、とさんざん迷い、クローゼットの中の服を引っ張りだしたあげく勢津子が選んだのは、地味なツイードのスーツだった。襟元が寂しいので、イミテーションのパールのネックレスをつけた。  そのスーツにはハイヒールが似合った。長身の阿久津に合わせてハイヒールをはいてみたい気もしたが、何も銀座で先生とデートするわけでもないのだから、と自分を戒めた。勢津子は踵《かかと》の低い、歩きやすいが、見るからに野暮ったい靴をはいた。  小料理屋では最上等の個室が予約されていて、阿久津と勢津子は歓待を受けた。一度ならず阿久津の家を訪ねて来たことのある社長は、勢津子とも旧知の間柄であるかのようにざっくばらんに会話をリードしてくれた。おかげで座は賑わった。  あなたさえよかったら、好きに酒を飲んでもかまわないのだよ、とあらかじめ阿久津から言われていたので、勢津子は遠慮せずに注がれる杯を飲みほした。ほう、たのもしい、いける口ですな、と社長は喜び、次から次へと熱燗を注文した。  いえもう、充分です、これ以上飲んだら、酔ってしまいます、と勢津子が断るのを阿久津は鷹揚に制した。「まあ、いいじゃないか。飲めるのなら、好きなだけいただきなさい」  宴が終わるころ、勢津子は化粧室に立ち、上半身が揺れるほど酔っていることを感じた。鏡に向かって、にじんだ化粧を直しながら、勢津子はその晩の阿久津が、自分をどのように見ていたか不安になった。もしかすると自分は試されていたのではないだろうか、勧められるままに酒を飲み、酔ってしまった女のことを阿久津は酷薄な微笑を浮かべて、軽蔑するように眺めていただけなのではないか、と。  もう一軒、知っている店に行きましょう、と社長から誘われたのを阿久津は即座に断った。いささか素っ気ないと思われるほどの断り方で、勢津子は阿久津がとてつもなく不機嫌になったことを感じとった。  ハイヤーを呼ばせた阿久津は、見送ってくれた出版社社長の姿が遠ざかった途端、案の定、口をきかなくなった。  両腕を組み、シートに深々と身体をもたせてじっと前を向いている。車が信号で停まったり、また発進したりしても、いっこうに身動きする気配はない。  眠ってしまったのか、と勢津子はそっと首をまわして阿久津の顔を見た。閉じられた瞼は時折、ぴくぴくと動いていた。ただ目をつむっているだけのようだった。  何か粗相があったのではないか、申し訳ないことをした、先生はたしなみのない女は嫌いなのだ、ひどく怒っておられるに違いない……そんなことを次から次へと考えた。勢津子は気分が悪くなった。  考えてみれば、秘書が作家をさしおいて、ふらつくほど酒を飲むなど言語道断である。阿久津は多分、社長の手前、好きなだけいただきなさい、と言ったに過ぎないのだ。ただの社交辞令だったのだ。それをまともに受け取って、注がれるままに杯を空けてしまうとは……。  勢津子は唇を噛み、窓の外を流れていく都会の夜の景色を眺めていた。どうすればいいのかわからなかった。この場ですぐにあやまりたかったが、ハイヤーの運転手に聞かれてしまうと思うと気がひけた。運転手とはいえ他人のいる前で、そんなつまらない話をされれば、阿久津がさらに不機嫌になることも目に見えていた。  その時、勢津子は腰のあたりに奇妙な感覚を覚えて凍りついた。車はちょうど首都高速道路の入口にさしかかったところで、水銀灯の光が束の間、車内を明るくした。  阿久津は前を向いていた。目もつむったままだった。運転手がバックミラーで見たら、眠っていると思うに違いなかった。  阿久津の細い手が、いったん勢津子の腰から離れ、シートの上をすべってきて、今度はそっと勢津子の腕をまさぐり始めた。  何かの間違いだろう、とは思わなかった。阿久津の手は確かに勢津子を求めていた。あとは勢津子が、その手の中に自分の手を重ねればそれでいいのだった。  勢津子はバックミラーの中の運転手の目を気にしながら、おずおずと、そこに自分の手を重ねた。少し湿った、古い布地に触れた時のような感触が広がった。  阿久津は勢津子の手を握りしめた。強くもなく弱くもない、いとおしげに肌を求めるかのようにして、阿久津のしっとりと汗ばんだ生温かな手は勢津子の手を包みこんだ。  握られていないほうの手で、勢津子は口を被った。唇が小刻みに震えた。静かな悦びが全身に広がった。  その手の感触は、明らかに夜な夜な勢津子が夢に見る、阿久津の性器の感触と同じだった。  かすかな淫らな気持ちと共に、勢津子は思った。いつ死んでもいい、と。  このままハイヤーであなたのうちまで帰ればいい、と阿久津から言われたのを断って、勢津子は阿久津と共にハイヤーを降り、阿久津と共に家に入った。  火の気のない家の中は冷えきっていた。勢津子は真っ先に茶の間の炬燵を入れ、灯油ストーブに火をつけた。  炬燵に入っていつものように煎茶を飲むのだろうとばかり思っていたのだが、阿久津は手洗いから出て来るなり、勢津子に向かって「書斎にお茶を運んでほしい」と言った。「私は少し仕事をする」  勢津子は慌てて阿久津よりも一足先に書斎に走った。ストーブをつけ、大急ぎで窓を開けて灯油の匂いを追い払った。  勢津子が台所で湯を沸かし始めたころ、着替えを終えたらしい阿久津が書斎に入って行く気配があった。  湯が沸くまでの間、勢津子は右手に残っている阿久津のぬくもりに唇を寄せた。匂いを嗅いでみた。わずかだが、日頃、廊下などですれ違う時にふわりと鼻腔をくすぐってくる阿久津の匂い……湿った藁《わら》のような匂いが嗅ぎとれた気がした。  湯が沸くと、阿久津専用の湯飲みに煎茶をなみなみと注ぎ、勢津子はそれを小さな丸盆に載せた。眼気ざましにと考え、丸盆に梅干しを入れた小皿も添えた。  勢津子は丸盆を手に、書斎の前まで行った。扉の前に立ち、「先生、お茶をお持ちしました」と声をかけた。  中から「ああ」と言う阿久津の、痰のからまったような声がした。書斎に閉じこもっている阿久津が「うむ」というのは、入ってもよろしい、という合図であり、「ああ」というのは、今は気を散らされたくないので、下がっていなさい、という合図だった。  万事、心得ている勢津子は、湯飲みを載せた丸盆を扉の手前に置いた。湯飲みの蓋がきちんとしまっているかどうか確かめてから、勢津子は「ここに置いておきます」と再び声をかけた。阿久津はまた、「ああ」と言った。  阿久津の声は耳に優しかった。若い男の声のように意味ありげではなく、隠された熱意がこもっているわけでもない。だがその声には確かに、密かに勢津子を愛し、密かに勢津子を求め、密かに勢津子に関する妄想を拡げている老人の、生臭いような性の匂いが感じられた。  衝動的な気分にかられ、勢津子はその場に立ちつくした。書斎はしんとしていた。 「先生」と勢津子は扉に向かって言った。「……さきほどは嬉しかったです。とても」  阿久津は答えない。書斎からかすかに聞こえてくるのは、燃えさかる灯油ストーブの炎の音だけである。  しばらく待ってみたが、阿久津からの返事はなかった。それでよかった。勢津子は充分、幸福だった。  勢津子は台所に戻り、阿久津が夜中に小腹を空かせた時のために、温めるだけですぐに食べられる卵雑炊を作った。雑炊をいれる器も用意し、箸と並べてメモを添えた。 「雑炊をお作りしました。よろしければお召し上がりください。勢津子」  しばらく考えて、最後の「勢津子」という文字を消した。自分はあくまでも阿久津の使用人だった。恋人ならいざ知らず、苗字ではない、名前だけ書き添えるなど、過剰な親しみを表現するのは慎むべきだった。  台所の火の元を確認し、戸締りを見回った。阿久津の寝室を覗き、壁際のオイルラジエーターをつけ、いつ寝ても温かいようにと、電気毛布のスイッチもゆるく入れた。  もっともっと、何かしていたかった。だが、他にはもう、何もすることがなかった。  勢津子は諦めてコートに袖を通した。まだ最終電車には充分間に合う時間だった。少し寒いが、駅まで歩いていこう、と思った。寝静まった冬の街をどこまでも歩いて行きたい気分だった。  玄関で靴をはき、書斎のほうに耳をすませた。阿久津が一つ、咳をした。湿った咳だった。勢津子は目を細めた。  玄関を出て、合鍵を使って鍵をしめた。外にある枝ぶりのいい松の木の枝に、冬の大きな丸い月が懸かっていた。  勢津子は月を見上げながら大きく息を吸い、吐き出す息の中で「これも夢なのか」と思った。 [#改ページ]    シャンプーボーイ  昼食の鰻重を食べ終わった正之は、肝吸いの最後のひと口を啜《すす》ると、「ああ、うまかった」と言って腹を撫でた。「やっぱり鰻は川島に限るな。タレがしつこくない」  鰻の老舗《しにせ》�川島�は、羊羹《ようかん》専門店�佐賀屋�本店の近所にある。佐賀屋の代表取締役社長である正之は、恵比寿の本店に立ち寄るたびに川島の鰻重を食べたがった。  頼子は鰻があまり好きではない。暑い日など、匂いを嗅いだだけで胸がむかむかすることもある。だが、本店で正之と会う時は喜んだふりをしてつきあうことにしていた。そうでもしなければ、�佐賀屋�の経営、実務の面倒ごとを一切合切、任せきりにしている義弟の正之に申し訳が立たない。  食べ始めてから五分しかたっていなかった。暑いのか、背広を脱いでワイシャツ姿になった正之は、�佐賀屋�の店の奥の小座敷であぐらをかき、爪楊枝で歯をせせりながら、ちらりと頼子の膳の上を見た。 「しかし相変わらず頼子さんは食べるのが遅いなあ。まだ半分も食べてないじゃないか」 「正之さんが早過ぎるのよ。いい年をして、痩せの大食いならぬ、痩せの早食いなんだもの」  ははは、と正之は大声で笑った。「死んだ兄貴も同じだったね。頼子さん、怒ってたじゃないか。いつだったか、二時間かけて作った五目鮨を兄貴が五分で食った、ってさ」  五分じゃない、四分だった、と言い直してやりたかったが、今となってはもう、そんなことはどうでもいいような気がした。頼子は黙ったまま微笑んだ。  夫の博之は五年前、五十の年に癌に倒れ、短い入院生活を経て亡くなった。一卵性双生児である正之は弟にあたる。  創業五十年になる羊羹の店�佐賀屋�の先代である両親は早逝していて、博之亡き後、弟の正之が継いだ。博之は手堅い商売を続けたが、正之は冒険を厭わず、五十年間、変えることのなかった小倉羊羹ひとすじの商売に新風を吹きこんだ。栗羊羹、抹茶羊羹などの新製品に加えて、最近では腕のいい和菓子職人を雇い入れて上生菓子の販売も始め、成功を収めている。  当初は、博之の妻である頼子が社長の座におさまるべきだ、と言う人間が多かった。正之もまた、その意見に反対はしなかった。和菓子の店に、女社長というのはイメージがいい、という。亡き社長夫人の頼子をイメージガールさながら表に出して、一方、すべての実権は自分が握り、佐賀屋をいっそう引き立てようと企む正之の計算はわからなくはなかったが、頼子はほうほうのていで逃げ回った。  もともと経営には不向きの性格であった。そろばん勘定も人づきあいも苦手だった。判断力は鈍く、根が臆病なせいか、即決力もない。かといって無邪気な大胆さがあるわけでもなく、野心も虚栄心も希薄である。  女社長であることにも何ひとつ魅力は感じなかった。いれたてのお茶を前にして、羊羹をおいしいおいしい、と言いながら食べるだけの、中年太りをした幸福な女でありたかった。男たちと肩を並べ、戦車のようにがむしゃらに生きることは、到底、出来そうになかった。  とはいえ、佐賀博之の妻であった以上、佐賀屋の経営から逃げきることは不可能だった。結局、会長という、形骸化したポストを振りあてられ、週に二、三度は用もないのに恵比寿の本店に顔を出したり、正之と共に取引先の人間との会食につき合ったり、取締役の会議に出席したりする生活が続いている。 「これからどこに?」小座敷まで、店の女の子にお茶を運ばせた正之は、意味ありげな目をして頼子を見た。 「ちょっと美容院に行ってこようと思って」頼子はショートカットにした頭を揺すってみせた。  美容院には二週間前にも行っている。その時も正之にどこに行くのか、と聞かれ、同じ答えを返した。最近、やけに頻繁に美容院に行くね、と言われたらどう答えるべきか、と不安になった。だが、正之は「そうか」と言ってうなずいただけだった。  痩せて頬骨が浮き上がって見えるところも、メタルフレームの奥のぎょろ目も、喋るたびに大きく上下するごつごつとした喉仏も、虚勢をはっているつもりなのか、時折見せる皮肉めいた表情も、何もかもが死んだ夫とそっくりである。夫に死なれても、夫はいつも頼子の傍にいた。正之を見ていると、夫が死んだとは思えなくなることがたびたびある。 「そろそろはっきり聞こうと思ってたんだけどね」正之は畳の上に片膝を立てたまま言った。「頼子さん、桂木とはどうなってるんだよ」 「どう、って、何が」 「再婚だよ、再婚。まじめに考えてるの?」  頼子は笑った。「また、その話? やめてちょうだい。桂木さんに限らず、再婚なんか考えたこともない、って言ったでしょ」 「でも桂木は考えてるよ。はっきり聞いたわけじゃないけど、見ればわかる」 「プロポーズされたわけじゃあるまいし。先走ったりしたら笑われるから、正之さんも桂木さんの前であんまりそういうこと、言わないほうがいいわよ」  桂木というのは、正之の学生時代からの友人である。鎌倉で大きな葬儀屋を経営しているが、先年、妻を亡くし、娘たちを嫁がせてからは広い屋敷に一人で気儘に暮らしている。  博之が亡くなった際、葬儀の一切を引き受けてくれたのが桂木だった。その際の、ただの葬儀屋とは思えないきめ細かな心遣いは、深く頼子の胸にしみた。  四十九日が過ぎてから、頼子は礼を言おうと桂木を訪ねた。小一時間ほど、屋敷の応接室で話をした。あまり話ははずまなかったが、控えめな口調で励まされたのが嬉しかった。  桂木は早めの夕食に頼子を誘った。鎌倉の、小さな鮨屋のカウンターに並んでビールを飲み、鮨をつまんだ。  自分のことを「僕」でも「俺」でも「私」でもない、「自分」と言う男だった。帰りがけ、映画に出てくる軍人か何かのように直立不動の姿勢をとり、今にも敬礼をしそうな勢いで「自分は今夜、とても楽しかったです」と言われて、頼子は思わず噴き出した。  以来、何が気にいったのか、桂木は時折頼子を訪ねては、ぽつぽつと茶飲み話などして帰って行く。手を握り合ったこともなければ、まして身体を求められたことなど一切ない。そうした交際が五年近く続いている。 「でもさあ、男と女なんだよ」正之は言った。「しかも未亡人とやもめなんだ。知り合って五年もたって、何も進展しないはずがないだろう」 「私はもう四十八よ。四十八の女と五十五の男が時々、お茶を飲んでそれ以上の関係に発展しないからって、別に珍しいことじゃないと思うけど」 「四十八と五十五だって、立派な男と女じゃないか。僕も五十五だけど、まだまだ現役だぜ」  正之が妻の目を盗んで、若い女性と温泉に行っていることは�佐賀屋�では有名になっている。博之のほうは、生前、浮いた噂ひとつなかったが、正之を見ていると、博之もまた、自分の目を盗んで他の女性と旅行の一つもしていたのかもしれない、と頼子は思う。嫉妬を覚えるどころか、微笑ましいような気がしてくるのが不思議である。 「頼子さんが再婚するなら、桂木がいいと思ってさ」正之は落ちつかなげに、せわしなく煙草を吸いながら言った。「いい男だよ。無口で冗談もうまく言えないのが玉に瑕《きず》だけど、誠実で真面目で、そのうえ財産もある」  そうね、と頼子は言った。「でもせっかくだけど、私は再婚する気は……」 「言っておくけどね。僕は何も、桂木との再婚をすすめて、頼子さんに佐賀屋から出てってもらいたいわけじゃないんだよ。こんなこと、当たり前すぎて、わざわざ言うのも変だけどさ。佐賀屋から頼子さんがいなくなるくらいだったら、桂木なんかと結婚してほしくない、と思ってるのが本音だよ。だったら、いっそのこと、桂木を佐賀屋の人間にしてしまえばいいんだけど、そうもいかないだろう。とはいえ、頼子さんの若さを考えると、再婚は頼子さんのためでもあるし……」  頼子はうつむいたまま微笑み返す。頼子にはよくわかっている。正之が桂木との再婚をすすめながら、そのくせどこか、不満げな、問題を抱えてでもいるかのような重苦しい表情をする理由がわかっている。正之が一度だけ、頼子を抱き、どうした加減か、頼子もまた熱に浮かされたようになって朝まで共に過ごしたことがあるからだ。  夫の一周忌を済ませた日の晩の出来事だった。親類縁者が全員、帰宅し、正之だけが一人残って頼子と酒を飲んだ。魔がさしたのか、博之の亡霊のいたずらか、それとも単に、度を越した酒の酔いのせいか。  すべてが終わってみると、ただの夢だったように思えてくるが、それでも事実は事実である。以来、常にあの晩の出来事が仄白いヴェールと化して、正之との間に目に見えない壁を作るようになった。互いに忘れたふりを装いつつ、それでも面と向かえば、思い出すのはあの晩の、突然の出来事しかないのである。  汗ばんだ肌から立ちのぼる、酸っぱいような匂いも、いささか性急な愛撫の仕方も、ごつごつした険しい腰骨の感触も、射精の瞬間の喉を詰まらせたような呻き声も、若い頃の夫と同じだった。いつからか夫婦の交渉がなくなって、結局子供もできずに終わってしまったのだが、夫が生き返って、夫と交わっているような気がして、胸が熱くなったものだった。  頼子が正之の妻に対してさしたる罪悪感を感じないでいられたのは、ひとえに、正之が夫とそっくりだったからかもしれなかった。自分はあの晩、正之ではない、博之と寝たのだ、と頼子は思った。そう思うと、考えもしなかった不意の出来事の意味がわかるような気もした。 「そろそろ行くわ」頼子はハンドバッグを手に立ち上がった。「美容院、二時に予約してるの。お先に失礼するわね。ごちそうさま。鰻、おいしかった」 「車、僕のを使えばいいよ。美容院ってどこ?」 「自由が丘だけど……。いいの。運転手つきの黒塗りベンツって、乗っててなんだか落ちつかないんだもの。自分でタクシー拾って行くわ」 「貧乏性だな。頼子さんは佐賀屋の会長なんだよ。美容院には運転手つきのベンツで行ってほしいね」  あはは、と頼子は笑ってみせた。「大丈夫。ベンツなんかで乗りつけたら、かえって恥ずかしくなるような庶民的な店だから」  正之は頼子を見送る、と言って店先に出て来た。正之と頼子が姿を現すと、佐賀屋の従業員が一斉に深々と礼をした。  店内には、羊羹を包む竹皮の匂いが満ちている。開け放されたガラス戸の向こうで五月の光が弾けている。初老の和服姿の女性三人が、ショーケースの中の抹茶羊羹を覗きこんでいる。  客の邪魔にならないよう、「じゃ、また」と小声で言って頼子は振り返った。正之はすでに傍にはおらず、新しく入店したばかりの女性従業員に笑顔で何か話しかけていて、頼子のほうは見ていなかった。  自由が丘の美容院�ピカソ�には、十年来通っている。スタッフの平均年齢は三十前後で、美容業界としては比較的高いほうである。そのせいか、客の年齢層には厚みがあり、女子高校生から七十代の上品な婦人まで、幅広い。  半年ほど前から、頼子は�ピカソ�に行くことが何よりの楽しみになった。それまでは美容院に行くのは面倒臭く、一ケ月に一度、どうかすると二ケ月あまり行かずにすませることも多かったのだが、今となってはもう、そんなに長く行かずにいることなど出来そうになかった。時には、五日もたたないうちにまた行きたくなる。ようよう我慢して一週間が過ぎるのを待ち、風邪をひいて入浴できない、と嘘までついて、シャンプーだけしてもらうこともあった。  そのたびに全身が幸福感に包まれた。楽しいことなど何ひとつない味気ない毎日に、一条の光が射しこんだ。あまりにはしたないので、言葉にすることすら、そら恐ろしいような気もしたが、頼子はその幸福感は性的なエクスタシーに似ている、と思っていた。  とはいえ、それは何故なのか、どうしてそんな気持ちになるのか、決して人には言えなかった。どうして打ち明けることなど出来ただろう。四十八にもなった女……しかも、�佐賀屋�の会長職についている女が、新しく入った息子ほどの年齢の年若いシャンプーボーイに見ほれて、せっせと美容院通いを始めた、などということは、間違っても口にすべきではなかった。  健介という名のその青年が�ピカソ�に入店したのは、八ケ月ほど前のことになる。しばらくの間、雑用係をしていたと思ったら、いつのまにかシャンプーの仕事についていて、時折、頼子の頭を洗うようになった。  美男だったわけではない。それどころか、どこにでもいそうな特徴のない顔つきで、ひとたび美容院を出てしまえば、どんな顔だったか思い出すのに苦労するほどである。上背もさしてあるわけではなく、小男ではないにせよ、長身とも言いがたい。  だが、栄養不良を思わせるほどすらりと痩せた美容師連中が多い中、健介は目立っていた。職業を間違えたのではないかと思われるほど、筋骨隆々とした、堂々たる体躯の持主だったからである。  大きく張った両肩から伸びている腕は、丸太のように太く逞しかった。手指や手の甲はごつごつしていた。あまりにごつごつしていたせいで、その手が触れるのは女の髪の毛などではない、何かもっと硬くて重い、油くさいもの……機械や重機、工具類のほうがふさわしいのではないかと思われるほどだった。  丸首のTシャツから伸びている首は太く、また、ゆったりとしたチノパンツの外側から想像できる太腿も、腕に負けず劣らず太い。胸板は厚く、腰まわりも大きかったが、にもかかわらず腹部は若々しく偏平で、肉体そのものに余分な贅肉、だぶついた部分というものが一切、感じられない。  とりわけ頼子は健介に首を支えられながら、頭を洗ってもらうのが好きだった。太い腕、大きな手で首の後ろを軽々と支えてもらっていると、赤子になったような安堵を覚えた。全身の力を抜いて、すべてを任せる時の、邪念の入らない無垢なひととき。力強い指の動きが頭皮を這いまわり、温かな湯が充たされる。耳の後ろの汚れを洗い落とす時の、健介の太い指の感触。その一分の隙もない見事な力強さ、柔軟さ……。 「気持ちがいいわ。生き返ったみたい」  頼子はシャンプー台に仰向けになりながらつぶやいた。これまで健介相手に何度も何度も、数えきれないほど口にした言葉だったが、今日もまた、やはり言わずにはいられなかった。  健介は黙っていた。もともとあまり喋るほうではない。母親ほど年の離れた女を相手に世間話を交わすことに慣れていないのか、天候の話などしていても、すぐに口を閉ざしてしまう。これまで健介と交わした会話で、個人的な話を交わしたことは二度しかなかった。一度目は、頼子に子供がおらず、夫が死んだため、現在目黒の家で一人暮らしをしている、という話をした時。そして二度目は、健介の年齢が二十二で、静岡の田舎町出身だという話をした時……。 「毎日あなたを借りて、家でシャンプーしてもらえればどんなにいいかしら」 「いいですよ」健介がぼそりと言うのが聞こえた。「行きますよ、いつでも」  顔の上に薄手のタオルがかけられている。タオルの粗い網目を通して、健介の動きがぼんやりとしたシルエットのように透けて見える。  健介は今日も半袖のTシャツ姿だ。暑いのか、半袖の部分をさらに丸めてたくし上げ、ランニングのようにして着ている。そのせいで、腕はいつにも増して太く硬く、見事に引き締まった肉の塊のように見える。 「ほんとに来てくれるの?」頼子はタオルの中で聞き返した。 「はい。行きます」 「週に一度くらいだったらいいかもしれないわね。お店が休みの日にね」 「毎日でもいいっすよ」 「そんなことしたらお店に出られなくなっちゃうじゃない」 「住み込みにさしてもらう、っていう手もありますから」  へえ、と頼子はタオルの中で笑った。「それは名案だわね。住み込みだったら、いつでも洗ってもらえるものね」  それには応えず、健介は洗い終わった頼子の頭を乾いたタオルで包みこんだ。同時に顔の上のタオルが取り去られ、一挙に視界が開けた。  健介が上半身を乗り出すようにして、頼子の頭を拭き始めた。太い腕のリズミカルな動きにつれて、たくし上げられた半袖の奥の腋毛が覗いて見えた。猛々しいような黒い腋毛だった。ほんのわずかではあるが、ふわりと瑞々しい体臭が匂った。熟した果実のような匂いだった。 「うちに住み込んでくれるんだったら、高給優遇してあげるわよ」頼子は言った。「いいわねえ。毎日頭を洗ってもらって、私は女王様気取りね。みんなに羨ましがられるわ」  ほんの冗談のつもりであった。そうなったらどんなにいいか、という思いもなかった。それは、ふざけてみたくなった時に、人が思いつきで口にする種類の言葉に過ぎなかった。  だが、健介はいかつい腕で頼子の首を支え、頼子の上半身をシャンプー台の上に起こすなり、小さな鳩のような目をぱちぱち瞬かせながら、「佐賀さんの家って、目黒でしたよね」と言った。  そうだけど、と頼子が言うと、健介はさして面白くもなさそうに「行きますよ」とつぶやいた。 「行く、ってどこに」 「佐賀さんのお宅に」 「あらあら、ほんとに専属シャンプー係をしてくれるわけ?」  笑いながらそう聞いたのだが、遅かった。健介はふいに職業的な声音で「あちらのお席にどうぞ」と言うと、大仰な仕草で鏡のほうを指さし、その日はそれきり、頼子と話をすることもなくなった。  週が変わり、何日かが過ぎていった。  まさか本気で言ったわけでもあるまい、ただの冗談だったに違いない……そう思うそばから、頼子は気がつくと�ピカソ�で交わした健介との会話を思い出し、反芻した。  また�ピカソ�に出かけて行って、健介にシャンプーしてもらいながら、それとなく冗談であると確認すれば済むことだった。だが、それだけのために店に行くのは馬鹿げていた。第一、健介はとっくの昔に、そんな冗談を口にしたことを忘れているかもしれなかった。  そのくせ、寝しなにブランデーを少し飲み、ぼんやりとした意識の中で夜ふけた部屋の中を見回している時など、いつのまにか健介のことを考えていたりする。健介の腕、ごつごつと硬い手指、それらに身体をあずけ、包みこまれ、うっとりと横たわっている自分を思い描いて、息苦しいような気持ちに襲われる。  その気持ちは、ついぞ頼子が経験しなかった種類のものだった。死んだ夫と恋に落ちた時も、もっと若かった頃の、アヴァンチュールとも呼べない、ささやかな恋のゲームのさなかにも、そして、正之や桂木にも感じたことのない気持ちだった。  胸が高鳴る、というのでは決してなく、下腹のあたりが熱くなるような、淫らな感覚ともまるで違う。性的なものであることは確かなのに、性の匂いはそこになく、あるのは果てしなく包みこまれていく時の安堵感、無言の信頼、巣ごもりをする動物のような安息……そういったものでしかないのが不思議だった。  約束とも言えない奇妙な約束を交わした日から、十日たった月曜日。沖縄が梅雨に入ったと発表され、東京もいやにむしむしすると思っていたら、夕刻から雨が降りだした。  その晩は、正之も一緒に、頼子は佐賀屋の取引先との会食に参加した。銀座の懐石料理の店で食事を終えると、正之が銀座の知っている店に取引先の連中を案内することで話がまとまり、頼子も熱心に誘われた。  男の方同士で楽しんでいらしてください……笑いながらやんわりと断ったのだが、珍しく正之が一緒に行こうと言ってきかない。日本酒を飲みすぎて少し酔ってでもいたのか、座敷の外から頼子に声をかけ、人けのない廊下の片隅に呼び寄せて頼子の腕を取るなり、「なんだ、冷たいな、頼子さん。連中を帰した後で二人きりになりたいと思ってたのに」などと言う。  酔ってるのね、とからかうと、怒りだした。しまいには真顔になって「これは仕事なんだからね。あなたは佐賀屋の会長なんだよ。わがままは許さないよ」と説教を始める始末である。  うんざりした頼子はつい、口走ってしまった。「ほんとのこと言うとね、私、更年期にさしかかってるのよ。男の人にはわからないかもしれないけど、時々、わけもなく身体がつらいの。ごめんなさい。今日は帰るわ」  事実でもあり、また事実でないような気もした。更年期を意識したことはなかった。身体があまり丈夫ではないのは昔からで、今に始まったことではない。だが、気分がいつになっても晴れないのは、身体の中に嵐を抱えているせいかもしれない、とも思う。嵐は思いのほか静かである。静かなのが不気味でもある。  それまで意味ありげに掴まれていた腕が、そっと放たれた。「悪かった。すまん」と正之は低い声であやまった。妙に優しい猫撫で声だった。死んだ夫にそっくりなぎょろ目が、眼鏡の奥で神妙に瞬きを繰り返した。  正之が用意してくれたハイヤーに乗って帰る途中、頼子は馬鹿なことを言った、と後悔した。かつて一度だけ肌を合わせたことのある男に嬉々として、自分は今、生理中なのだ、と教えたようなものだった。自分の裸を知っている男、自分の陰部を知っている男、そして今は何の関係も持たない男に対して、生理や妊娠や更年期の話をするのは、見知らぬ男相手に同じ話をすることよりも遥かに不浄な感じがした。  正之はもう自分を誘わないだろう、とふと頼子は思った。別に誘われたいわけではなかった。飲みに行くだけならいいとしても、正之とは二度とそういう関係になりたくはなかった。だが、誘われないとわかると、寂しいような気もした。そんな寂しさを感じる自分がいやだった。  十時近くになって、目黒の自宅に戻った。雨足はいっそう強くなっており、ハイヤーを降りて門扉を開け、アプローチを走り抜けて玄関ポーチに辿り着くだけで身体が濡れた。  一日おきに通ってもらっている家政婦は、四時になると帰ってしまう。不用心だから、自分が留守にする時は、帰る際に忘れずに玄関灯と門灯をつけていってほしい、と何度も念を押した記憶があるのに、明かりがついているのは門灯だけで、玄関に光はない。家全体が、雨を含んだ暗がりの中に沈んでいる。  玄関脇についているポーチの明かりのスイッチを押し、ついでに庭園灯も灯した。二階建ての家は、建て直してから十年ほどたっている。新しくはないが古くもなく、時間をかけてゆっくりとなじんできたようなところがあって、頼子はこの家が気にいっている。外での疲れを癒し、世俗の垢を落とし、気持ちを鎮めてくれる家でもある。  雨の中、ぼんやりと灯された光の中で玄関ドアに鍵をさしこもうとしたその時だった。背後で、雨音を遮るような人の気配がした。  驚いて振り返ると、若い男が立っていた。ビニール傘をさしている。白のコットンパンツに黒い半袖のTシャツを着て、黒いナイロン地のリュックを片方の肩にかけている。  男は小さな目を眠たげに細め、かろうじて微笑みのようなものを口もとに浮かべると、低い声で「どうも」と言った。「さっき来たんですけど、留守だったみたいで」  びっくりさせないで、と頼子は言い、大きな息をついてみせた。「誰かと思った。いったいどこから入って来たの」 「どこ、って、門からですけど」 「さっき来た、っていつ?」 「さあ、三十分くらい前かな」 「よくここがわかったのね」 「店のパソコンにはお客さん全員の住所と電話番号が入ってますから」 「前もって電話くらいかけてくれればよかったのに」 「すみません」 「あやまることないけど……それにしても呆れるわ。突然来て、こんな雨の中で待ってたの? いつ帰るかわからないのに?」  ええ、まあ、と健介は言い、感情が読み取れない無表情な顔つきのまま、こほん、と大人びた咳払いをした。「ご迷惑でしたか。約束したもんだから、一応……と思って」 「約束?」 「頭を洗う約束です」 「そのために来たの?」 「はい」 「冗談じゃなかったのね?」 「はあ」  あはは、と頼子は笑った。笑いながら「ごめんなさい、笑ったりして」と言った。「来てくれて嬉しいわ。ちょうどよかった。頭、濡れちゃったの。洗ってくれる?」 「はい、洗います」  頼子の目の前に腕があった。頼子の愛する腕だった。傘の柄を支えているせいで、二の腕のあたりに筋肉の小さな瘤《こぶ》ができているのが見える。  Tシャツの袖口を引き裂かんばかりの勢いで伸びている腕は、太さといい長さといい、申し分がない。短すぎず長すぎず、太すぎず細すぎず、ミケランジェロに憧れた彫刻家が、そっくりに仕上がるようにと定規で計って彫り上げれば、いつかはこんな彫像ができあがるのではないか、と思われる。  雨の飛沫を受けて、ころころと丸い小さな水の玉が腕一面に幾つも弾け、光の中に浮き上がるのが見えた。若く逞しい、完璧に美しい腕だった。触れれば熱いほどの生命のぬくもりがあり、一切を軽々と撥ね返す弾力があるように思われた。  それらを一瞬のうちに目のあたりにし、頼子は胸がふさがるほどの幸福感を覚えた。  雨の音が耳に優しかった。近所の飼い犬がひと声吠えた。  大きく息を吸って微笑み、お入りなさい、と頼子は言った。青年はうなずくと、照れた様子もなく頼子に従って中に入って来た。  頼子の家のバスルームには大型の大理石の洗面台がある。通常市販されているシステム洗面台にはハンドシャワーが取りつけられているものが多いが、蛇口も流しも一切合切、特別注文で作らせた洗面台にその種の機能は期待できない。  洗面台でそのまま頭を洗えるよう、ハンドシャワーを取り付けたい、と生前の夫に頼んだ時、夫はいい顔をしなかった。せっかくの大理石の水まわりが安っぽく見える、と言う。  業者にハンドシャワーを取り付けてもらったのは、夫が死んで二年たってからのことになる。水まわりのことゆえ、思いもかけない大工事になってしまい、半月ほど、洗面台が使えなくなってしまったのには閉口したが、その工事がこんな形で役に立とうとは、頼子は夢にも思っていなかった。  椅子は、背もたれの部分が好きな角度でリクライニングになる籐椅子を利用した。仰向けになってみると、椅子は洗面台の高さとぴたりと合った。後はいつも自宅で使っているシャンプーとリンス、乾いたタオルが何枚かあればそれでよかった。  頼子は二階の寝室に行き、着ていたスーツを脱いでスパッツと丈の長いサマーセーターに着替えた。その間、健介は一階の居間にいたが、何やら携帯電話を使って誰かと話をしている気配が伝わってきた。何を話しているのかはわからなかった。低く、少し不機嫌そうな声が聞こえてきただけだった。 「一日中、仕事してきたあげく、夜になってまでこんなことさせられちゃ、たまらないわね」頼子は籐椅子に仰向けになりながら笑いかけた。「変な約束しちゃって、後悔してるんじゃない?」  健介は慣れた手つきで頼子の髪の毛を梳くようにしながら、「そんなことありません」と言った。 「まさかほんとに来てくれるとは思ってなかったわ」 「そうですか」 「でもよかった。今日はくたびれて、お風呂に入っても頭を洗うのが面倒になってたところだから」  健介は応えなかった。ハンドシャワーの湯が温かく頼子の頭を濡らした。美容院ではないので、顔に薄手のタオルは載せていない。したがって、軽く閉じた瞼の隙間から、健介の動きのすべてを覗き見ることができる。彼の腕が頼子を支え、頼子の頭を包みこみ、頼子を赤子のように扱っている。そのすべてが夢の中の出来事のようでもある。  仰向けにのけぞったような姿勢が、気恥ずかしかった。健介に向かって、あられもなく乳房を突き出しているような気がする。美容院ではそんなことを意識したこともないのに、気になって仕方がない。  こんな時間に、家には自分とこの若者しかいないのだ、と思うと、少し怖いような気もした。相手は犯罪者でもなく、強姦魔でもない。ただのシャンプーボーイなのだから、と自分に言いきかせた。しかも、息子ほど年の離れた若者である。彼にとっては自分など、母親と同じ年代の女に過ぎないのである。必死になってそんなふうに言いきかせている自分が可笑しくもあった。  いくら支払えばいいだろう、と考えた。高給優遇する、と約束したのだから、相応の礼をはずまねばならない。それに時間が時間だった。雨の夜、頭を洗ってもらっただけで、はい、さようなら、と帰してしまうのはいくらなんでも素っ気なさすぎるというものだった。軽い夜食を用意して、もし飲めるのなら、ビールの一杯くらい御馳走し、帰りの交通費も払ってやるべきなのかもしれない。  作りおきしたグラタンがあったことを思い出した。五日ほど前、二人分作って一つを食べ、残る一つをそのまま冷凍したものである。あれがいい、と頼子は思った。解凍してビールと一緒に出せば喜ばれるかもしれない。  一方で妙な想像も渦まいた。もしかすると、自分はとんでもないことをしているのかもしれない。この若者は何か企んで自分に近づいて来たのかもしれない。自分が佐賀屋の元社長の未亡人、佐賀屋の会長であり、おまけに目黒の家に一人住まいであることを知っていて、うまく取り入り、金をせびろうと画策しているのかもしれない。さっき、携帯電話を使って誰かと話をしていた様子なのも、仲間と打合せをしていたのかもしれないではないか。  だが一方で、そうした想像には何の根拠もない、ということはわかっていた。 �ピカソ�で、頼子は自分が佐賀屋の会長であることを誰かに話したことはなかった。たとえ、�ピカソ�のスタッフの誰かが、頼子と佐賀屋の関係を聞きつけ、それが健介の耳に届いたのだとしても、この、無口でどこか鈍そうな、社会性があるのかないのかもわからない青年に、羊羹専門店�佐賀屋�の資産価値など想像することもできないに違いなかった。  健介の大きな手が、頼子の首の下に差しはさまれた。しょろしょろという優しい湯の音と共に、シャンプーの泡が静かに洗い流されていく。昔、産湯を使った時、きっと自分はこんな気分でいたのだろう、と頼子は思った。  目を閉じた。蒸し暑いので部屋の窓は開け放しにしてある。外の雨の音がかすかに聞こえる。健介の手はシャワーの湯で温められている。その温かな手の中に、頼子の細い首がすっぽりと収まっている。  ふいに、謝礼のことも、何を御馳走すればいいのかということも、健介がここに来た真意も何もかも、一切がどうでもよくなった。  味わえばいいのだった。ブラジャーの中の垂れ気味の乳房や、ここのところ急に増え出して染めるしかなくなっている白髪、たるんだ頬や目のまわりの小じわ……それらが健介に子細に観察されているかもしれない、などということは何ひとつ気にせず、神が創造したこの完璧な手、この完全無欠な美しい腕に包まれ、赤子のように扱われることの快楽を素直に受け入れていればいいのだった。  頼子は籐椅子の中で、うっとりと全身の力を抜いた。 「……だめですか」  いきなり聞かれて頼子は我に返った。  ビールをグラス一杯、飲み終えたところだった。疲れているのか、あるいは洗髪があまりに気持ちがよかったせいか、酔いがまわり、ついぼんやりしていた。  洗い終えた髪の毛は健介が丁寧にブローしてくれた。さらさらになった髪の毛のせいで、頭が軽くなったように感じられる。ダイニングルームの出窓の外では、庭の木々の葉を叩く雨の音がしている。もうじき東京も梅雨に入る、と頼子は思う。  健介は神妙な顔をしてダイニングテーブルに向かい、上目遣いに頼子を見ていた。ビールはグラス半分ほどしか減っていなかった。グラタンも食べかけのままである。 「ごめんなさい。何か言った?」 「住み込み……です」健介は繰り返した。「毎日、仕事から帰ったら、僕、シャンプーします。朝のほうがいいんだったら、そうします。まだ勉強中ですけど、カットだって基本的なものだったらできますから」  何を言われているのかわからなくなり、頼子は目を見開いた。  拒絶されていると思ったらしい。健介はしょげたように大きな身体をすくめると、「すみません」と言った。「稼ぎが少なくて、あんまり部屋代、払えないんです。その代わり、シャンプーとブロー、毎日丁寧にやらしてもらおうと思ってたんですけど……やっぱりだめですよね」 「住み込み、ってあなた、本気なの?」頼子は聞いた。「ここに住む、っていうこと? 私と一緒に?」  健介はいっそう身を縮めるようにしてうなずいた。「だめならいいんです。当たり前ですよね。図々しいこと、お願いしてるんですから、だめでもいいんです」 「今までどこに住んでたの? まさか住所不定じゃないんでしょう?」 「新丸子にあるアパートです。東横線の。知ってますか」  頼子はうなずいた。「アパート、追い出されたのね」 「はあ。そんなところです」 「部屋代の滞納か何か?」 「いえ、そんなんじゃないんですけど、ちょっと事情があって……」 「人には言えないようなこと?」 「まさか。ただ……」  言いよどむ健介は食欲をなくしてしまったのか、そっとグラタンの皿を脇に寄せ、うつむいた。「……喧嘩しちゃって」 「誰と」 「一緒に住んでる女の子です。一年前から同棲してるんです。僕より一つ年下で、同郷なんです。浮気したとかしないとか、ありもしないことで疑われて大喧嘩になって、それで追い出されちゃったんです。三週間くらい前かな。仕方なくずっと友達のとこ、転々としてたんだけど、どうもうまくなくて……それで……」  頼子は笑った。「情けないのね。何もしてないんだったら、何もあなたが部屋を出て行くことはないでしょうに」 「そうですけど、でも、何となくそういうことになっちゃって」  あまりの微笑ましさに嫉妬に似たものを感じた。生き方も、人生経験の量も、踏み越えてきた苦労の数も、何もかもがこんなにもかけ離れた若者が、雨の晩、住むところを探して自分の家にやって来て、同棲中の女の子から部屋を追い出された、と訴えている……。 「ここでよかったら、しばらく寝泊まりしていけばいいわ」頼子は言った。「部屋代なんか取らないから安心して」 「いいんですか」 「いいわよ。どうせ一人だもの。空いてる部屋はたくさんあるし」  夫と死別したとはいえ、何故、こんな広い家に今も一人で住んでいるのか、家族は他にいないのか、何か仕事をしているのか、一人でいて寂しくないのか……頼子相手に聞くべきことは山のようにあったはずなのに、健介は何も聞かなかった。他人のことには何ひとつ興味がないのか、それとも聞いても仕方のないことだと割り切っているのか、彼はやおら胸を張り、目を輝かせると、「シャンプー、任せてください」と言った。「他のことでは何の役にも立たないけど、僕、シャンプーだけは自信があるんです」  鼻の奥が急に熱くなった。泣きたいような気持ちにかられ、頼子はとまどった。  シャンプーの香りに充たされた髪の毛を軽く揺すって、頼子はグラタン皿を指さした。 「もう食べないの? ビールは?」 「いただきます」と健介は言い、やおらフォークを手に取ると、凄まじい勢いでグラタンを食べ始めた。喉を鳴らしてビールを飲む音がした。グラスはすぐに空になった。  頼子が二杯目をついでやろうとすると、「もういいです」と彼は言った。「酒、あんまり強くないから」  頼子は健介にバスルームの使い方を教え、客用の和室に案内した。押入れの中に寝具が何組か入っていた。シーツも枕カバーも揃っている。好きなように布団を敷いて寝なさい、と指示した。  健介よりも先に入ろうと思い、素早く風呂に入った。あがってから顔にクリームを塗って、ガウン姿のまま、しばらく居間でテレビのニュース番組を見た。  健介が部屋から出てくる気配はなかった。遠慮して、風呂に入るのをためらっているのかもしれなかった。  頼子は客室に行き、そっと襖戸をノックした。返事はなかった。かまうことはない、と思った。ここは私の家なのだし、男とはいえ、相手はまだほんの子供だ。  襖戸に手をかけ、そっと引いた。細めに開けた戸の向こうに、服のまま、布団に倒れこむようにして大の字に眠っている健介の姿があった。よほど疲れていたらしい。小さないびきが、半開きの口からもれ、それに合わせるようにして、厚い胸が規則正しく上下していた。  天井の電気はつけっ放しだった。雨戸はもちろんのこと、カーテンも開いていた。  頼子は苦笑しながら部屋に入り、音をたてないよう注意しながら雨戸を閉め、カーテンを閉じた。ふと思いたって、その身体に毛布をかけてやった。電気を消し、枕元のスタンドの小さな明かりだけを灯した。  窓の外では相変わらず雨の音が烈しかった。外界を遮断し、包みこんでくれるような音だった。  ぼんやりとした黄色い明かりが闇に滲む中、しばらくの間、頼子は健介の寝姿を見ていた。そうやっていると、腕は蝋か何かでできている精巧な人体部品のように静かだった。  触れてみたい、とは思わなかった。まして唇を寄せてみたい、とか、匂いを嗅いでみたい、などと思うはずもなかった。  見ているだけでよかった。それは見るため、頼子の首を支えるためにだけあるのであり、触れたり愛撫したりするためにあるものではないように思えた。  この腕がこれからしばらく、自分のものになる、と思うと嬉しかった。頼子は目を細めながら襖戸を閉じると、充たされた気持ちで二階の自分の寝室に向かった。  翌日は火曜日で、�ピカソ�は定休日だった。雨はやみそうになく、健介は朝から外出する先もないようで、どこか居心地悪そうにしていた。中年女の家に間借りして、お抱えのシャンプーボーイになったりしたことを深く後悔しているのではないか、と思われた。  家政婦の来ない日であった。所在なげに丸めたティッシュペーパーで、朝食後のダイニングテーブルの上を拭き続けていた健介は、何を思ったか唐突に、「掃除します」と言って立ち上がった。「掃除、させてください」  彼は家中に掃除機をかけ、台所を磨き、洗い物をすませ、廊下を磨き、窓ガラスを磨いた。若いせいか、並みはずれた体力の持主なのか、疲れを知らない様子で、昼食に、と頼子が蕎麦を茹でてやると、それを腹いっぱい食べ、ろくに休みもせずにまた働き始めた。バケツに水をくみ、雑巾をしぼって雑巾がけをし、それでも足りずにバスルームのタイルを磨いた。汗だくになったが、意に介している様子もなかった。  夕暮れ時になって、あらかた目につくところを掃除し終えると、健介は満足げに「さあ」と言った。「今度は佐賀さんの頭を洗います」  頼子は笑った。「私の頭は窓ガラスやお風呂場のタイルと同じなのね」  似たようなものだ、と頼子は思った。だが、それでよかった。自分の頭が、健介によって、健介の命みなぎる手によって、窓ガラスや風呂場のタイルと同じ扱いを受けるのだとしたら、むしろ本望ですらあった。  その晩は桂木と近所の天ぷら屋で食事を共にする約束をしていた。七時頃、桂木が家に迎えに来ることになっていたのだが、雨の中、出かけて行くのは何だか面倒な気もした。  突然の来客があったので、と嘘をついて断ってしまおうかと思ったものの、それも大人げない。そんなことを考えるのは、桂木に何の思いも寄せていない証拠だったが、かといって、無関心なのかというと嘘になる。会って不愉快な男ではなく、むしろ心がなごむ。誘われれば喜んで応じたいと思うし、長い間連絡がないと、ふと、どうしたのか、と気になる相手でもある。  だが桂木は、雨の晩、健介に丁寧にシャンプーをしてもらってまで、いそいそと出かけて行くにふさわしい相手ではなかった。桂木は頼子にとって遠い身内のような、抑制を利かせた交流を心がけている、心やさしい隣人のような男でしかなかった。  前夜のように籐椅子に仰向けになり、至福のひとときを過ごした。丁寧にブロードライしてもらい、外出着に着替えたところで、まるで待ちかまえていたかのようにチャイムが鳴った。  桂木だった。門の外に、ハザードランプを点滅させて停まっている紺色のBMWが見えた。雨の中、美しく磨かれた車はなめらかな光沢を放っていた。桂木は、見るからに上質な萌葱色のジャケットスーツ姿だった。たかが近所に天ぷらを食べに行くだけなのに、彼がその晩の食事をどれだけ楽しみにしていたか、即座に見て取れたのが、頼子には少しうっとうしく感じられた。  健介のことはわざわざ紹介するまでもない、と思って黙っているつもりでいたのだが、頼子が玄関でパンプスをはいていた時、洗面台に何か硬いものが落ちる音がした。シャンプーの後、洗面台を片づけていた健介が、歯磨き用のマグカップか何かを流しに落としたらしかった。 「誰かお客さんですか」桂木が聞いた。その目が、瞬時にして玄関先に揃えて置かれてあった一足の大きなスニーカーを視界にとらえたのを頼子は見逃さなかった。  隠すのは不自然だった。かといって、まことしやかな嘘を言うのも面倒だった。  頼子はこくりとうなずいて、「健介君」と奥に向かって呼びかけた。そんなふうに健介の名を呼んだのは初めてだったが、照れくささはなかった。健介という名の、可愛がっている犬か猫を呼んでいるような感じだった。  健介が白いタオルで手を拭きながら出て来た。少し猫背のガニ股歩きだった。わけもなくふてくされているような歩き方は、美容院でのそれと同じだった。桂木を見て挨拶をするでもなく、微笑みかけるでもなく、人見知りの烈しい子供のように、彼は仏頂面をして頼子の前に立った。 「彼は宮島健介君。私が通ってる自由が丘の美容院で働いている人なの。ちょっといろいろ事情があって、この家で私の専属美容師をしてもらうことになって……」  どうも、と健介が後ろ頭をかきながらぎこちない礼をした。 「自分は桂木といいます」  桂木は、相手を間違えたかのように両手をぴしりと身体の脇につけ、深々とした礼をした。だが、その顔から怪訝な表情は消えなかった。  頼子は健介に向き直った。「こちら、桂木さんよ。鎌倉に住んでらっしゃるの。食事をして二、三時間で戻るから、適当に夕食は済ませておいてちょうだいね。冷蔵庫にいくらでも食べ物は入ってるわ。電話は留守番電話にしてあるから出なくてもいいし、万が一誰かが訪ねて来ても、黙ってていいのよ。鍵はちゃんとかけておいてね」  はい、そうします、と健介は抑揚のない声で言い、もう一度、誰にともなく礼をした。  桂木と共に外に出ると、背後で玄関扉の鍵がかけられる音がした。桂木は傘を頼子にさしかけ、車まで行って助手席のドアを開けた。そして自分も運転席に落ちつくと、イグニションキイを回そうとして、つと動きを止めた。  あのう、と彼は低い声で言った。軽い咳払いがそれに続いた。「不躾なことを伺いますが、あの青年は頼子さんのご親戚か何かにあたるんでしょうか」 「いいえ。赤の他人です」 「彼はひょっとして、この家に住んでるんですか」 「ええ」 「ええと、その……頼子さんと一緒に?」 「そうです。といっても昨日からですが」 「下宿人、というわけですか」 「部屋代はとらないから、下宿人とも呼べないでしょうね」 「年は幾つ?」 「二十二だって言ってました」 「それで……専属の美容師、って、いったい何を……」 「頭を洗ってもらうんです」 「頭を?」 「シャンプーです。彼はシャンプーボーイですから」  はあ、と桂木は言った。「自分にはさっぱり事情が飲みこめません」  頼子はくすくす笑った。何が可笑しいのか、自分でもよくわからなかった。飲みこめないのは当たり前だ、と思った。自分でもよくわからないのだから、と。  笑い声が大きくなった。桂木は一緒になって、お愛想のように少し笑ったが、すぐに口を閉ざし、以後、健介の話題は出さなくなった。  その晩は天ぷらを食べ、桂木に送られて九時半過ぎに家に戻った。雨は小やみになっていた。門灯も庭園灯も煌々と灯されていた。鍵を使って中に入ると、健介が迎えに出て来た。上半身裸だった。  シャワー、借りました、と彼は言い、濡れたままの髪の毛を無造作にタオルでごしごしこすった。美しい完璧な腕の持主である肉体は、磨きあげられた清潔な鋼のような光沢を放っていた。腕の付け根には、なめし革のように鈍く光る広い胸郭があった。性的にはほとんど用を成さないと思われる小さな縮んだ乳首には、数本の毛が生えていた。腋毛と同じ黒い毛だったが、それ以外、体毛は見当たらず、どこもかしこも引き締まって、眩いほどに煌《きら》めいているばかりであった。  今、ここで、その肉体に包みこまれてみたい、と頼子は一瞬烈しく思った。包みこまれ、ぬくもりに身を沈め、汚れを消して、感情をもたない一つの物になってしまいたかった。  とはいえ、そこに性的な疼きは一切、なかった。あったのは、熱を帯びたような感謝の気持ちだけだった。  それは宗教的な感謝……神に捧げる感謝にも似ていた。  健介が働く店�ピカソ�の営業時間は、午前十一時から午後七時までだった。健介は朝十時になると家を出て行き、夜は八時過ぎ、どうかすると十時近くまで戻らなかった。  帰って来ると、軽い夜食を自分で作って食べ、洗い物をすませ、頼子が寝る前に頼子の頭を洗った。風呂は交代で入った。下着類は彼が入浴の際に手洗いし、乾燥機にかけ、翌朝、また同じものを身につけて出かけている様子だった。  頼子の就寝中、勝手に冷蔵庫を開けて飲み食いしたり、借りて来たビデオを観たりするということはなかった。頼子が寝室に引き取ると彼もまた、居間のテレビを消して自室に戻った。  月水金、と週に三日、一日おきにやって来る家政婦には、事情があって親戚の子がしばらく滞在するから、と教えた。家政婦の来る日の昼間、健介が家にいることはなかったので、両者が鉢合わせすることもなかった。  店の定休日である火曜日になると、健介は家中の掃除をしてくれた。料理は不得手ではないようで、時には簡単な夕食を作ってくれることもあった。  だが、相変わらず会話は少なかった。一緒に差し向かいでコーヒーを飲んでいても、話がはずむことは滅多になかった。何か質問すれば答えるのだが、それで終わる。頼子がどうやって生計をたてているのか、彼は聞こうともしない。  自分が留守の時に困るだろう、と思い、頼子は合鍵を作って健介に手渡した。鍵を渡してしまうと、忘れていた不安が頭をもたげた。夜遅く帰ってみると、家の中がもぬけの殻で、金目のもの一切合切が煙のように消えていた……そんな想像を何度となく繰り返した。  想像の中ではいつも、不思議なことに健介は手紙を残している。レポート用紙の真ん中に、稚拙な文字で「ごめんなさい。許してください」と書かれてある。手紙はぽつんと、ダイニングテーブルの上に載せられている。  頼子は許そうと思い、警察にも届けない。想像はいつもそこで終わる。馬鹿げたことと知りつつ、実際にそうなったら、やっぱり自分は警察に届けないかもしれない、と妙な確信をこめて頼子は思うのだった。  東京も梅雨に入り、連日、湿度の高い、蒸し暑い日が続いた。健介との共同生活を始めて十日ほどたった頃、ちょうど昼どきであったが、連絡もなしにふいに正之が訪ねて来た。  正之は携えてきた鰻の折詰を頼子に差し出すと、「昼飯に一緒に食べよう」と言った。彼ご贔屓《ひいき》の�川島�の鰻であった。  暑い暑い、と連発し、頼子がクーラーをつけてやっても、どこか不機嫌そうな表情は変わらない。ネクタイをゆるめて、居間のソファーに座ったかと思うと、つと立ち上がって庭を見渡し、廊下に出るなりトイレに行ったり、と落ちつかない様子である。  正之がそうした形で家を訪ねて来ることは滅多になく、あるとしても佐賀屋に何か問題が起こった時か、正之自身が個人的な鬱憤を抱えこんでいる時か、と相場が決まっていた。この時はいずれの理由でもなさそうで、頼子はいやな予感がした。  家政婦が来ている日だった。昼食の支度は家政婦に任せ、頼子は居間にビールを運んだ。 「いや、ビールは今日はいい」と正之は言った。「今日はね、実を言うと頼子さんに話があって来たんだ」  頼子が黙っていると、正之は大きく突き出た痩せた喉仏を上下させ、ごくりと音をたてて唾を飲んだ。「桂木から聞いたよ。何だか知らないけど、おかしな若造を同居させてるんだって?」  やっぱり、と頼子は思った。そう思っても、少しも気持ちが乱れないのが不思議だった。 「行きつけの美容院の男の子よ。事情があって住むところがないって言うから、部屋を貸す代わりにシャンプーを頼んでるの。それだけよ」 「それだけ? それだけやれば大したもんだ」正之は笑いながら言ったが、目は笑っていなかった。「別に佐賀屋の伝統を云々するつもりはないけどさ。桂木や他の男たちを手玉にとって遊んでる、っていうんだったらまだいい。僕は自由恋愛主義者だからね。でもね、どこの馬の骨だかわからん若造を理由もなしに家に入れるなんてさ。頼子さんらしくもないことだよ」  自由恋愛、という古めかしい言葉だけが頼子の中に残された。この人は何もわかっていない、と頼子は思った。 「こういうことはすぐに人の噂にのぼるようになる」正之は重々しい口調で言った。「頼子さんだって、つまらないことでつまらない陰口は叩かれたくないだろう」  頼子はおっとりと微笑んでみせた。「そうね」 「犯罪に結びついたらどうする。近頃の若いやつらは何を考えてるかわからないんだよ。金目当てかもしれない。夜中にぐさりとやられたらそれでお終いだ」 「今のところ何とか無事に生きてるみたいよ」 「冗談を言ってる場合じゃないよ。僕の言ってること、わかってくれないのかな」 「わかるわ。でも、なんでもないことなんです。うまく説明できないだけで、これは本当になんでもないことなのよ。私とあの子の間にはなんにもないし……私、あの子の手も握ってませんから」 「そういうことを聞きに来たわけじゃないよ」正之は怒りを滲ませて言った。「不愉快だな、頼子さん。いったい全体、どういうつもりなんだろう」 「だから、私にもよくわからないのよ」頼子はゆっくりと瞬きをした。  盆の上の缶ビールに細かい水滴が浮いていた。手を伸ばし、指先でそこに線を描いた。ハンドシャワーのノズルから健介の腕に飛び散った、無数の水滴が思い出された。  正之はしばらくの間、黙っていたが、やがてうっそりと立ち上がると、「帰るよ」と言った。 「鰻、食べて行かないの?」 「うん、いい。腹は減ってないんだ」  この人は、嫉妬にかられているだけなのだ、と頼子は思った。たった一度寝ただけなのに。これからもまた、寝る可能性がある、という、そのおめでたい想像にしがみつき、子供じみた嫉妬心を煽られているだけなのだ。  正之が帰ってから、頼子は家政婦と一緒に鰻を食べた。脂っこいので途中でいやになり、頼子が半分以上残すと、頼子とさほど年の違わない家政婦は「もったいない。いただきますよ」と言って、残った鰻をあっという間に食べてしまった。  次の火曜日、店が定休日だというのに、珍しく健介は朝からどこかに出かけて行った。  夜は正之と共に出席しなければならないパーティーがあった。できれば出かける前に健介に頭を洗ってもらいたいと思っていたのだが、彼がいつ帰るのかはわからなかった。たまの休みである。健介とて、日が暮れるまで若者らしく街をぶらぶらしたい時があるに決まっていた。毎日、遊ぶ間もなく働き、火曜日はだだっ広い家の掃除、となればあまりに気の毒である。  午後四時過ぎ。頼子が一人で髪を洗い終え、化粧をして着替えようとした時、玄関チャイムが鳴った。  ドアの向こうに、見慣れたリュックを背負った健介が立っていた。一人ではなかった。ジーンズに身体にぴったりとしたシャツ姿の、すらりと背の高い娘が寄り添っていた。  健介よりも先に、娘がぺこりと頭を下げた。身体つきが大人びているわりには愛くるしい顔をした、気立てのよさそうな娘だった。 「ご挨拶に来ました」健介は言い、つと娘のほうを振り返った。「美佳です。新丸子で一緒に住んでた……」  美佳と呼ばれた娘は、もう一度お辞儀をした。「ケンちゃんがお世話になりました。ありがとうございました」 「仲直りしたのね?」頼子が聞くと、健介は、はい、とうなずいた。その顔にみるみるうちに少年のような赤みがさした。  彼の代わりに美佳が愛想よく微笑んだ。「ケンちゃんが毎晩、電話をくれてたんです。それで……。あのう、これ、つまらないものですけど、お礼にと思って……」  差し出されたのは折詰だった。�川島�と印刷されてある。 「私、鰻屋で働いてるんです」美佳は言った。器量はさほどでもなかったが、化粧っけのない顔はつややかで眩しかった。「恵比寿にある川島っていうお店です。勤めてるから言うわけじゃないんですけど、ここの鰻、けっこう美味しいです」  ほら、ケンちゃん、あんたも、と美佳が世話女房さながらに健介の脇腹をつついた。健介は慌てたように、後ろ手に持っていた箱を頼子に手渡した。 「こいつの勤めてる店の近くに、大きな和菓子の店があって、そこの店、佐賀さんとおんなじ名前だったんですよ。だから面白いと思って買って来ました。羊羹の詰合せです。鰻と羊羹なんて、すごく変な取り合わせだけど……あんなにお世話になったのに、こんなことしかできなくてすみません」  頼子は笑った。笑っているつもりなのに、笑い声はかすれ、喉の奥で渦を巻いて消えていくような感じがした。  ありがとう、とやっとの思いで言った。健介は黒いシャツを着ていた。半袖ではない、長袖だった。腕は見えなかった。 「また店のほう、来てください」健介は言った。「一生懸命、シャンプーします」  行くわ、と頼子は言った。「何か忘れ物はない?」 「ないと思います。いつも着たきり雀だったし」 「何か見つけたら、今度お店に行く時に持ってってあげる」 「すみません。お願いします」  午後になって雨があがっていたのに、また、霧雨が降ってきたようだった。美佳は白い傘を持っている。愛らしいフリルのついた柄の長い傘である。美佳が勢いよく傘を開くと、大輪の白い花が咲いたようにあたりが明るくなった。  二人はもう一度、頼子に向かってお辞儀をした。よく見ると、ショートヘアにした美佳の髪形と健介のそれとは、よく似ていた。頼子の目の前で、二人のさらさらとした髪の毛が、栗色の清潔な二枚の布のようにふわりと舞った。  頼子は二人の後ろ姿を見送った。傘をさしかけた美佳の腰を、健介が軽く抱き寄せた。美佳が上半身をくねらせるようにして健介にぴたりと脇腹を押しつけた。白い傘の中で、二人は一つになった。  腕だけ置いていってくれればよかったのに、と頼子は思った。あの腕が欲しかった。他に何もいらなかった。あの腕さえ自分のものになってくれれば、他の部分は誰のものになってもかまわなかった。  二つの箱を手に家に入った。翌日家政婦に食べさせるつもりで、鰻のかば焼きを冷蔵庫に入れた。見慣れた佐賀屋の羊羹は、箱ごと戸棚にしまった。抹茶と小倉の詰合せだった。  健介が使っていた和室に行ってみた。布団は丁寧に畳まれて部屋の片隅に積んであった。健介の腕が布団を畳み、積み上げる様が想像できた。  安息と静けさ、忘我の象徴である腕……。また別の腕を探さなければ、と頼子は思った。刻一刻、死に向かっていく人の営みにも似て、自分が腕を探すのもまた、老いに向かう自分の生の営みであるに違いないのだから、と。  庭のどこかで鳥が鳴いた。頼子は、勢いよく押入れを開け、積まれていた布団を上げ始めた。 初出誌    夢のかたみ 別册文藝春秋二一五号    静かな妾宅 オール讀物'94年1月号    彼なりの美学 オール讀物'96年7月号    秋桜の家 オール讀物'97年10月号    ひるの幻 よるの夢 オール讀物'98年1月号    シャンプーボーイ オール讀物'98年6月号  単行本 '99年1月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十四年四月十日刊